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LZ120:ボーデンゼーおよびLZ121ノルトシュテルン

LZ121_1

2. LZ 120 BODENSEE entsteht

2. LZ120 「ボーデンゼー」の誕生


2.2 迅速な計画策定

「小型旅客用飛行船」の「アイデア」が提案された一週間後、最初の会議が行われ、その2日後の1919年2月5日には設計者のシュタール、ヤライとアルンシュタイン、それにデューア博士と協力者ヴィルケとレンパーツが顔を会わせた。船体のリングは17角形に決定した(一辺の長さは3.45メートルであった)。
船体の材料について協議され、重量が増加しない限りにおいて、既に手許にあるものを使用することが決定された。(保管されていた、この桁材は戦時中に工場で扱われていた材料であったが、終戦後の平時のためだけに準備されていた。海軍の建造計画はすでに完了していた。)
通路の高さ、窓の配置、バラスト袋、ガソリンの配管、ガス充填など詳細についても討議された。

その一週間後の2月12日には、ヤライは設計図を提出することが出来た!
それには、後部エンジンゴンドラの正確な位置や、船尾近くの補助操舵装置の方式や乗船者の座席設置要領といった詳細について計画されていた。キャビンの内装(や塗装は)建築家であり画家でもある衣ベルンハルト・パンコック博士に委託された。パンコック(1872年-1943年)はミュンヘンとシュトットガルトで仕事をしており、そこで彼は美術学校を経営していた。彼はすでに戦前からDELAG飛行船の内装を担当しており、またツェッペリン伯爵の立派な肖像も描いていた。

2月17日に行われた次の会議にはエッケナーも加わった。重要なポイントは、大きな乗客用兼操縦用ゴンドラの位置決めであった。戦前のDELAG船では、乗客用ゴンドラは船体中央部より少し前方の船体下部に取り付けられており、外部に設置された通路にはめ込まれていた。操縦ゴンドラは飛行船前方下部に開放型に独立して設置されていた。
2月12日の時点では、LZ120用のヤライの設計図では -1915年春以降に建造されたすべての飛行船のように、通路は船体内部に設置されることになっていた- 乗客用キャビンは同様の位置に計画されていた。その後ヤライは、キャビンを5メートル前方に移動させ、その前部を操縦用ゴンドラと接続させた新しい版の設計図を提示した。
メリットとデメリットを充分に考慮した結果、この配置が決定された。そしてそれが、その後のツェッペリン飛行船LZ126およびLZ127の設計指針となったのである。
そのとき計画されていたアメリカ船(10万立方メートル船)は、3月11日にヤライの構想と同じ乗客区画に決定された。次に行われた2月28日の会議で、ヤライはゴンドラの最終案を提出した。そこには、安定板と舵板などについての具体案が示されていた。

3月5日に、会議のメンバーは「船内艤装部で展開された乗客区画と操縦区画の内装」、つまり、原寸大モデルの審査を行った。
それから、窓の大きさ(地上から下辺0.8メートル、上辺1.75メートル)、(パンコック教授はそれを好まなかったが)静力学上の理由から望まれる、空間を仕切る柱、網棚、折り畳みテーブル、筆記台などについて話し合われた。議事録には「操縦ゴンドラには小便器を取り付けること」と記されている。
3月7日、無線装置についての検討が行われ、 -それには、夢見ていたアメリカ船に装備される無線通信の予備実験を行う意図もあった- 4月29日には、手持ちの無線局を組み込むことを決定した。新規装置は25%性能が良く、37キログラム(乗客1人の重量の半分)軽かったが、2万5千マルク高価であった。

ヤライはLZ120の2.54メートル模型(縮尺約50分の1)を風洞で実験に用い、「付加物のない」船体のみの場合と、尾翼やゴンドラ付きの模型の場合において圧力分布や3方向分力を計測した。

3月23日に同僚の1人が、ヴルテンブルクのガイスリンゲン金属製品工場における経験を報告した。すなわち、軽量のナイフ・フォーク・スプーンのセットを作ること(つまり軽金属に銀メッキする)はうまくいかず、混凝紙で皿や盆に銅メッキや銀メッキする試みも失敗に終わったと。ちなみに、その報告者はエリッヒ・ヒルガートと言い、LZ130までの全ツェッペリン飛行船の電気設備の責任者で、彼は重要な提案をすることになっている。

2ヶ月のあいだにLZ120の設計について、これほど多くの詳細が決定されたことは驚くべき、また驚嘆すべきことではなかろうか。これに関連する多くの著述を読むと、再び商用飛行船の建造に携わることが出来たことが、フリードリッヒスハーフェンの人たちにどれほどの喜びと満足感をもたらしたか窺い知ることが出来る。建造は4月に始まった。 -そして、8月中旬に新しい飛行船が格納庫内で完成した。それは「ボーデンゼー」と名付けられ、光り輝く赤い文字で船体の両側に誇らしげに表示されていた。盛大で厳粛な命名式が行われたという報告はない。

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