以下に示すのは1919年1月27日に開催された、方針決定協議の記録からの引用である。
「ヤライ氏の考えでは、容積2万立方メートルの飛行船は(中略)4基のエンジンを装備すれば時速133.5kmを達成することが可能である。それに対してエッケナー博士は、その速度が達成できるかどうか疑わしく、時速100キロの速度に留めておくべきであると提案した。」
LZ120が最初に実施した2度の試験飛行(1919年8月20日、21日)では、4基のエンジンで、AK(「最高速度」)で時速130.5キロ、巡航回転数で時速119.6キロと測定された。
会議に計算尺を持ち込んで、議論の最中に船体容積や速度を2%の精度で推測(し、最適な長さ、直径、載荷重量を推定)する能力をもつパウル・ヤライとは、どんな人物だったのだろうか?
飛行船史研究家のなかで彼を評価している人は殆どいない。それは、彼が戦前からDELAGに居たわけでもなく、最後の3隻の大型飛行船の活躍した黄金期にフリードリッヒスハーフェンの飛行船製造社で仕事をしていたわけでもないという理由からであろう。それで許されるなら、ここで彼の生涯とその業績について紹介したいと思う。
パウル・ヤライ(1889年-1974年)はウィーンで育った。彼には芸術家肌の傾向があったが、ウィーンの第一機械工業専門学校に入った。彼が航空関係に携わったきっかけは1909年、ブレリオの試験飛行を見学したときで、そのとき彼はその修理工と知り合った。彼は1912年にプラハの技術専門学校で短期間助手を勤めたあと、フリードリッヒスハーフェンの飛行機製造会社(テオドール・コーベル)に主任技師として雇われた。
彼が設計の一部を担当した戦闘機は、1918年スイスに売られている。1914/15年にツェッペリン飛行船製造有限会社に鞍替えした。そこでデューア博士と、彼の長年の同僚であるカール・シュタールのもとで仕事をし、飛行船を可能なかぎり最適な流線型にすることを第1の目標と考えた。
飛行船の流線型について:
一方では自重が、他方では浮揚ガスの種類と体積が燃料の備蓄と飛行船の航続距離を決定する。
また、一方で空気抵抗はエンジン性能に対抗し、他方ではその速度を決定する。
チャールズ・レナードは、おそらく世界で初めて流線型について系統的に研究し、飛行船ラ・フランス(1884年)にその研究成果を活用して成功をおさめた。ヨハン・シュッテ教授はこの分野で大きな進展をもたらした。最初のシュッテ・ランツ飛行船SL1は1911年に、その形状で当時のツェッペリン飛行船を遙かに卓越していた。
1909年にフリードリッヒスハーフェンで、カール・シュタールはLZ7以降の飛行船の船首・船尾の形状を数式で表現することを初めて試みた。次いで楕円曲線、さらに放物線などの曲線を用いて展開した。
その後シュタールは形状についての数学的表現をパウル・ヤライに委ねた。
ヤライは、飛行船用の最適な流線型を数式で決定することに成功した。唯一この方程式によって、飛行船直径の長軸上の任意の点について、外被上各点の正接(タンジェント)、横断面、全容積と全体の重心を算出することが出来た。
通常、その内容はシュッテ教授の業績として一般に認められている。我々はここで、パウル・ヤライがそれに関して1926年に記述したメモを読んでみることにしよう。
「よく知られているようにシュッテは、独力で『科学的な原理』により飛行船を建造し、それによって獲得したすべての成果をLZが『模倣した』と主張した。
真相は、その後問題になった点はすべてLZにおいて私のオフィスで改良されたものである。私は戦争中ずっと自分の研究に従事しており、別の機関、すなわちシュッテ・ランツのそれ以前の如何なる知見にも依存してはいない。」
船体形状を形作る曲面を表す彼の数式は、1915年以降わずかに変更され、その後建造されたすべてのツェッペリン飛行船全般に -可能な範囲で- 適用された。この時期にヤライが設計した新しい大型の、固有の風洞とその利用により、理論的な計算結果や実務で得られた提案の確認が可能になった。ヤライが最適化しようとしたのは船体形状だけではなかった。彼は必要な張線を最小限にとどめ、尾翼やゴンドラの支柱をずっと小さなものにして空気抵抗の少ない形状に改良しようと試みた。
ヤライによって考案された飛行船船体の流線型は、戦時中にはあまり良い近似で実現することが出来なかった。何故ならば、その形状は、直径に対して長さがずっと小さな割合になり、つまり、実現するには格納庫の幅と高さを「拡張」することを必要としたからである。
海軍飛行船のガス容量が常に増大を続けたのに対し、格納庫の高さと幅はそれに対応してすぐに拡大できず、その結果飛行船の形状は長さ方向に延長せざるを得なかった。
ヤライはそれに対して、円筒形の胴体中央部の形状を長く維持しようと歯を食いしばって頑張った。実務に携わる人たちもそれを望んだ。同じ大きさのリングの数が多ければ、それだけ高い生産性を上げることが出来るからである。
それどころか、平行な円筒形中間部のない飛行船は操縦性が悪いという主張もあった。だが、LZ120とその続行船はそれを否定した。ともかくヤライが設計した最初の海軍飛行船は、完璧でなかったにもかかわらず、少なからぬ速度を達成し、その計算の正確さを証明した。
厳密な話はさておいて、ここでは逸話風の話を述べることにしよう。
1915年4月3日、新シリーズのp型(「L10型」)初号船であり、同時にヤライの計算に基づいた初の飛行船LZ38が処女飛行に離陸した。(その飛行船は、長さ60メートルの円筒形中間部分があった。)
「ヤライの事前予測によると、毎秒26.5メートルを達成することになっていた。人々はこの飛行でそれほど大きな速度向上は考えられないと冷笑した。実際にこのとき最初の試験飛行では、わずか秒速24.5メートルにしか到達できなかった。コルスマン取締は、緊張して結果を待ち受けるヤライに飛行船格納庫の出口で遇い、『ヤライ、駄目じゃないか!』と言った。
それから飛行船指揮者のラウ船長が彼に歩み寄り、いくらか愛想よく話しかけた。『速度が問題なのではない。飛行船の飛行があまりに少なすぎるのが問題なのだ。』
ヤライはもともと大きな男ではなかったが、事務所に入ってきたときにはずっと小さくなっていた。しかし、しばらくして彼は、思いがけなくある模型製作者から、その飛行船には別の飛行船のプロペラが暫定的に取り付けられていたことを聞かされた。彼の抗議によりその間違いを訂正して飛行させたとき、彼が保証したように秒速26.5メートルではなく、それどころか26.7メートルを出したのである。」
1917年以降すべてのプロペラがヤライによって開発されたこと、そして横風によって入庫・出庫時に飛行船を危険にさらすことのある、格納庫を取り巻く気流について精力を注いで研究していたことを述べておかなくてはなるまい。彼は、そこで格納庫と多くの異なった形状の格納庫出入口について数多くの風洞実験を実施している。おそらく、ヤライはツェッペリン飛行船製造有限会社と共有で数ダースにも及ぶ特許を取得していると考えられる。
そして終戦から数ヶ月も経たないうちに、いつもヤライが甲斐なく望んでいた形態と、詳細設計に合致し流体抵抗を最小化することを約束した -そして、その約束は守られた- LZ120飛行船の建造が決定された。そしてヤライの方程式に基づく形状が確定され、その後のツェッペリン輸送用飛行船の規範となったのである。
1924年にヤライはツェッペリン飛行船製造有限会社を去り、スイスに移り住み自分の技術事務所を開設した。既にフリードリッヒスハーフェンの風洞実験において、(飛行船のような)すべての方向から気流に接する船体の空気抵抗と、街路や軌道車両のように地表に接したもののそれとの根本的な相違を認識していた。それで彼はその後数十年にわたり、いくつもの自動車メーカーで流線型車体によって名を知られるようになった。
彼は飛行船技術にも積極的に関わった。彼はイギリスの飛行船メーカー、エアシップギャランティ社から船体形状の専門家として招聘され、R100の建造に寄与している。
彼が影響を与えた分野はさらに広い範囲に及ぶ。飛行機製造(前輪)、風力設備、排気装置、消音器、信号伝達装置、電話回線によるTV中継、無線電信(ラジオ受信機で初めて押しボタンによるチャンネル選択)、医学的ジアテルミー処理機器などである。
彼は自分のアイデアの活用によって持続的な経済的成果をあげることは出来なかった。その殆どは、経済的および政治的情勢の不都合によるものである。