LZ127Profile

LZ120:ボーデンゼーおよびLZ121ノルトシュテルン

LZ17_1

1.3 Die Idee vom "kleinen Passagierschiff" wird geboren und gedeiht


1.3 「小型旅客飛行船」構想とその進展

1919年初めのことである!
1月27日に「役員室」でフォン・ゲミンゲン、コルスマン、エッケナー博士、デューア博士とその顧問であるウィルケ少佐、E.A.レーマン、シュタール、レンパーツ博士、ヤライとアルンシュタイン博士により重要な会議が開かれた。
総支配人のコルスマンが話をはじめた。「ドイツ国内の鉄道および陸上交通の困難な状況を支援するために、約20人 あるいはもう少し多くの乗客を輸送する小型旅客飛行船の建造が提案された。提案者はレーマン氏、レンパーツ博士、ヤライ氏である。」

ここで少し話を中断しよう。一体、「鉄道および陸上交通の困難な状況」が、本当にこの提案の唯一の動機だったのであろうか?事実、物資および要員の不足が生じていた。そこで、戦勝国による機関車の供給が始まった。
ボーデンゼーからベルリンまで列車で行くために戦前はおよそ14時間を要し、いつも列車内で一晩過ごさねばならなかった。それがいまや18~28時間必要になっていたのである!
航空もその交通の困難から生まれたのである。よく知られているものには、2月6日に2人から6人の乗客を乗せた飛行機でスタートしたベルリン・ヴァイマール間の空路、1918年12月17日にHAPAG、AEGにより設立されたドイッチェ・ルフトリーデライDLR、それにツェッペリン飛行船製造有限会社がある。

しかしながら、おそらくこの「提案」を決定付けた理由を、(この会議で発言を控え、批判的な質問しかしなかった)エッケナーが、後に次のように言っている。「終戦後、私は飛行船を出来るだけ早く、再び交通手段として実現するように努力した。」
1918年の秋にはすでにツェッペリン飛行船製造有限会社とDELAGのあいだで協議が行われていた。そして、交通状況に関する「飛行船による支援の可能性」、そして初めて定期便による空輸が検討された。運航ダイヤの計画作成には当然ながら制約があった。- そしてDELAGは、1910~1914年の全盛期において、これをほとんど成功させることは出来なかった。1588回の飛行のうち殆どが遊覧飛行で、平均約2時間の飛行であったが、13160人の乗客はその素晴らしい体験を記憶にとどめていた。この戦前の活動は、いま計画中の「小型飛行船」でも、副次的な業務としてもちろん実行することが出来た。飛行船の乗組員は、飛行訓練が出来ること、乗船している重要人物に飛行船航行の感激を味わって貰えること、そして何より再び一般国民に空からツェッペリンを見せることが出来ることを喜んだ。

話は1月27日の会議に戻る。レンパーツ博士(物理学者で気象学者であり、飛行船指令)は、鉄道の難局はその後1年以上継続すると思っていた。この頃は世間の信頼を獲得できていたので、鉄道輸送が正常運航を回復すれば常客を得られるだろうと考えていた。彼は年間に可能な運航回数を300回と見込み、エッケナー博士は200から250回と考えていた。コルスマンは(何隻かの飛行船が飛ぶとすれば)その計画は採算にのらないと思ったが、「それでも我々は、第1に自分たちが資金を出し、第2に自分たちが仕事をし、第3に自分たちで稼ぐことで事業を展開する。」と言っている。

飛行船は正確な運航計画に基づいて、出来る限り天候に依存しないで運航し、小型・高速で乗組員を減らすという点では、すぐに意見がまとまった。12000立方メートルの容積については、ほんの少し議論されるに留まった。ヤライは最大航続距離を1600キロメートルとするとエンジン3基ででは容量15000立方メートル、4基では18000立方メートルになると推定した。エッケナーは、中部ドイツ山岳を越えるために圧力高度は少なくとも800メートルになると想定し、航続時間は緊急時には12時間必要で(通常、ボーデンゼー・ベルリン間の距離は約650キロメートルで7時間を要する)、載荷重量は9トン程度は欲しいし、そうするとガス容量は2万立方メートル必要になると試算した。
デューアは、別のプロジェクトを同時に進行させる必要がなければ、その飛行船を5、6ヶ月で完成させることが出来ると推定した。
決議は、2万立方メートルの飛行船に直ちに着手し、10万立方メートル計画の工事は完全に見合わせることとなった。
- 1919年初めに大西洋計画をとりあえず一度棚上げにしたことには注目すべきではなかろうか?
- エッケナーは翌日、最初の推定に合致する、より根拠のある重量について説明している。
それによると、20人の乗客(1人あたり携行品共で重量139kg)と計算し、次のように言い添えた。「これは20人の乗客を前提としたものであるが、彼らが常に乗船するか、あるいはときどき乗るだけかについては疑問が残る。」このとき彼は、現実的にはこうした心配が払拭されることになるとは予測することが出来なかったのである!

1919年2月12日の協議で、この建造番号LZ120の「小型飛行船」の建造が確定し、3月11日にL72および10万立方メートル船に関して、再度会議で徹底的に討議された。そこでコルスマンが次のように伝えたのである。すなわち、HAPAGの職員はベルリン-スイス間の路線で、毎日満席になることを保証し、30人でなく、僅か20人の乗客しか乗せることが出来ないことを残念がった。損益をじっくり検討した結果、それを2万立方メートルのままにしておき、可及的すみやかに2番船を建造することになった。
注目すべきはエッケナーの悲観主義であった。つまり、彼は需要が大きくなると予想し、そうなると、希望者全員を同行させられないことを懸念したのである。希望者の殺到を回避するための一つの有効な手段は、乗船料を値上げすることであった・・・。

1919年3月には「飛行船製造社とDELAGの間で協定が行われた結果、フリードリッヒスハーフェンとベルリン間の空輸に対する共通予算でDELAG側が運用することになり、まずは1隻だけで、その後出来るだけ早く2番船を就航させることになった。」

表紙・目次に戻る

1章2節へ

2章1節へ

トップページに戻る