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陸を越え、海を越え

PresidentCoolidge

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

ZRⅢ(ロサンゼルス)の飛行(6)

飛行船は凱旋行進のように格納庫に運ばれ繋留された。新聞記者が走り寄りカメラマン達もやって来て、親切な海軍将校が助けに来てくれて我々を外に逃がしてくれるまで1時間ほどつきまとわれた。

大洋横断は貴重な経験であった。ある天候状態が飛行を早く安全にするために有効であることが判った。レークハーストに着いた後、天気図を見るとアゾレスからニューヨークまでの西航で明らかにその恩恵に浴していたこと、ニューファンドランド南の低気圧域を迂回するためには少なくともさらに10時間を要していたであろうことも判った。これは海上を航行するときの重要な知見の一つであった。

さらに、越えて行かねばならない航路上に居座る冷気団の前に展開する暴風前線の大気の乱れは、飛行船にとってそれほど危険でないことも判った。これは重要な発見で、この後の飛行で再確認された。航海術の観点から、我々の飛行に充分満足し、アメリカで培われた飛行船の運航に関する熱意を共感したのである。

11月中旬に、汽船でドイツに帰ったが、ZRⅢが両国民の関係改善に貢献した喜びと達成感、それに誇りで満ち足りた気持ちであった。私は、この飛行がドイツ国民に与えた影響を知りたかった。

次の仕事は大洋横断輸送用のツェッペリン飛行船を開発し、運用することであった。しかしながら、そのためには政府の裏付けが必要であり、これを期待できるのは我々の航空方針に責任を持つ大臣と、すべての部署の官僚が適切に処理してくれることだけであった。このように周辺を見渡すと、皆 飛行船ではなく飛行機にばかり興味を示し、殆ど何も期待できない悲惨な状況であった。

飛行機は世界中のすべての国が最も切望し関心を持つ対象であり、ツェッペリンとその形式の飛行船を創り出した国でさえ、その赫々たる実績にもかかわらず、少なくとも航空専門家の社会では間違った考えに取りつかれているようであった。

ツェッペリン伯爵は、最初からこの意見と論争すべきであった。私の知る限り状況はあまり変わっていなかった。現在は私もそう思うが、当時もおそらく、飛行機がまもなく大海を飛び越えることが出来るようになると考えていたことは正しかったのかもしれない。しかし、この考え方の間違いは、未来に期待するあまりに既に実現しているものを無視している点にある。この時期に、この利用可能な方式のメリットをどれだけ引き出すことが出来るだろう?

私は10年前、ツェッペリン飛行船の開発成功を喜び、それ故にその後渡米飛行の直後も含めて、多年月にわたるこの経験は生かされるべきであると断言することを躊躇しない。しかし我々は「ヒンデンブルク」の建造を決定し、それに政府の資金が下りる1934年まで待たなければならなかった。

少なくとも最初の時点で、政府から気前の良い出資が期待できないことが明らかになったとき、ドイツ人のツェッペリンに対する熱意をアッピールすることを思いついたので、1908年の「エヒターディンゲン義捐金」と呼ばれたツェッペリン伯爵への寄付金と同じような人々の基金を発起することにした。

私は、嵐に飛行船を破壊されたあと何の救いも期待できず打ちのめされた老伯爵に寄せられた1908年の義捐金に、世間がなにがしかの疑わしさを抱いていることを知っていた。悲劇的な状況で人々の心情に訴え、愛と賞賛を引き出した。現時点ではそのような悲劇的な出来事はなく、すべての人々が同じことで再び熱狂するとは思えなかった。

しかし、私には成功に立ち上がるために残された手段は残っていなかった。そこで事務所を開設して「ツェッペリン・エッケナー義捐金」と呼ばれる寄付金の管理運用を始めた。私とフレミング船長、フォン・シラー、ヴィッテマン、プルスなどアメリカ飛行の関係者と、技術部門の何人かの協力者の講演による遊説活動が展開された。

それは大変な仕事であった。私自身、1925年・1926年にはおよそ100回の講演を自分に課して、自分の体力的、精神的強靱さの限界に達していた。

おそらく、生涯で一番疲労困憊した仕事であった。

ZRⅢ(ロサンゼルス)の飛行(7)

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