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陸を越え、海を越え

DrEckener1

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"


序(1)

「哲学者」であり政治経済学者ではあるが、まったく飛行士とも技術者とも無関係なところにいた私が、如何にしてツェッペリン伯爵とそのアイデアの虜になったのか、どう説明すれば良いのだろう? 私はこの私自身の好奇心や願望に関していろいろ調べてみたが、それらは多かれ少なかれ正しく、あるときは喜び あるときは悩み 結局自分で書いてみるのが良いと感じた。

1900年9月、私が時折短い原稿を送っていたフランクフルター・ツァイトゥンク紙の編集部から、まもなく行われる予定の「ツェッペリン伯爵のこれから行われる飛行実験に関するレポート」を書かないかと打診があった。同紙は7月に行われた試験飛行のレポートの1つを送ってきていたが「誰かがボーデン湖に関して再度書き送っても何の価値もない」と思っていた。

私は7月の飛行実験の際、フリードリッヒスハーフェンには居なかったがツェッペリン伯爵の実験にはあまり興味がなかった。当時、バルト海でヨット巡航を楽しんでいたのである。

私が読んだ1900年7月に実施された最初の試行に関する新聞記事に掲載されていた 難しい問題と重要事項の解は、ボーデン湖に行って確かめることだと思った。それでフランクフルター・ツァイトゥンク紙の取材を引き受けた。そして実際に10月に行われた飛行実験をレポートしたが冷静で論評的な論調で書いた。

後に 私に関して述べられている 私が最初に会ったツェッペリン伯爵を「対立者」としたり「サウルがパウロに変わった」と言われたことは事実ではない(註1)。私はただ、金属のフレームで出来た重い船体が実際に空中に浮き 一定の速度に達しており 当然それは操縦可能であるが、そのときに到達した毎秒6~7mは穏やかな風にしては遅すぎると述べ そのことを助言したに過ぎない。各16馬力の2基のエンジンではそれ以上の速度は出せなかったのである。

専門家は納得しなかった。伯爵はその「飛行船の飛行を実現する株式会社」を解散し、事件は終わったかに見えた。しかし、世間はこの老紳士の決意を過小評価していた。

彼はそれで落胆したわけではなく、殆ど自己資金で新しい飛行船を建造した。その飛行船は85馬力のエンジンを2基備えていた。1905年の晩秋、その飛行船は最初でただ一度の飛行を行った。結果は大惨事であった。飛行は順調にスタートしたが、強い風が飛行船を持ち上げ、どうすることも出来ないままアルゴイに飛ばされて、出発点から30キロ離れたワンゲンに近い地点で破損した。ツェッペリン飛行船の命運は最終的・決定的に尽きたと思われた。飛行船は物笑いの種になり、壊れやすい剛な骨組みで出来た飛行船が常にうまく着陸できるわけがないと主張していた専門家たちは地面に横たわる壊れた飛行船がそれを実証していると思った。心に傷を負い、気落ちしたツェッペリン伯爵はもう2度と飛行船を作らないだろうと思われた。

私はこの出来事の目撃者として車で飛行船の墜落した場所に急いだ。そこで、老伯爵が手酷く壊れた飛行船の傍らに、落ち着いて静かに立って残骸の片付けを指図しているのを目撃した。私はその状況を、操船手段が不適切であり、特に飛行船が飛ぶときに傾斜角を作り船体を水平に保つことが出来ない、垂直安定板が問題であることを強調してフランクフルター・ツァイトゥンクに掲載した。

それから2~3週間後、私が庭で作業しているとメイドがとても興奮しながらやってきて、ツェッペリン伯爵が扉鈴を鳴らしていると告げた。

私は居間で会おうと思い、伯爵を居間に案内するように指示した。作業服を脱ぎ、貴賓にふさわしい身繕いをして部屋に入った。彼はいつもそうしているのだが、そこにきちんと整えたモーニング姿で、シルクハットと黄色い手袋を持った、礼儀正しい上流階級の老紳士が居た。私は、彼がなぜ私を訪ねたのか不思議だった。彼は上着のポケットからフランクフルター・ツァイトゥンクを一部取り出し、Dr.E.とサインのある記事を指し、それを私が書いたのか訊ねた。私が書いたと答えると、彼は私に好意的な記述に感謝したいと言い、しかし私の記載内容に正確でない記述があるのでそれについて話し合いたいと言った。

それから彼は長い会話の中で、飛行船は船尾に安定板を持っておらず「尾翼」がないが、それは矢が横に逸れずに空中をまっすぐ飛ぶために矢羽根が要るように必要だと言った。彼は努力を続ける気があるが、次に造る飛行船には安定した針路を維持するために安定板をつけなければならないと言った。彼の話に納得するほかなかった。

伯爵は大変に心を込めて私を招待してくれ、どんな情報でも欲しいときに質問して欲しいと言ったので私は喜んで受けた。人間としての興味のほか伯爵自身、飛行船を作るアイデアに何か興味を抱いたためのように思う。

序(2)

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