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陸を越え、海を越え

Echterdingen

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続)

序(1)

数日後、伯爵が晩餐に招いてくれたとき、この訪問が私のそれからの生活と仕事に大きな影響を及ぼす可能性があるなどと予感することなく出掛けた。結果は私の予想を大きく上回るものであった。伯爵の話によれば、すべてが非常にはっきりとした彼のアイデアに対する悪質な敵意であり、なかでも政府の官僚や組織は昇進に絡んでプロジェクトや実験に対してあからさまであった。プロシアの飛行船大隊は、彼ら自身いわゆる半硬式の飛行船を開発していたので、最も直接的でありその妨害は敵意に満ちていた。

伯爵の事業に関心のある技術者、科学者、産業人たちは協力的であったが、アルゴイの事故で幻滅を感じ、何をする気も失っていた。ただ、地道ながら持続的な啓蒙と宣伝活動が関心を回復するために必要であることは明らかであった。私は伯爵に内燃機関が大いに進展していることを告げ、彼のアイデアの実現性を信じてその方式を広報したいと述べた。伯爵は私の提案に感謝していたけれども、内心ではおそらくあまり信じていない様であった。

私は、個人的に言えばかなり楽天的なところがあり、私が訪問したことで世論に大きな影響を与えると思った。これからは以前のように知的な研究に費やす時間は少なくなると考え、私の人生をツェッペリン計画に捧げようと思った。人生行路をツェッペリンに向けて変針し、その後の3年間は執筆だけでなく、あらゆる方法で硬式飛行船の価値と可能性を広報することに務めた。

このように「哲学者」であり経済学者は、飛行船界の人間になったが、常に努力を継続し、成功を純技術的な手法で、倫理と政策的理想に結びつけることを心掛けてきた。ツェッペリン社は、その時点で雲の中を飛翔し、その後悲運に見舞われるが、私は入社した年は詳細には立ち入らなかった。これらは既に、ツェッペリン伯爵生誕百年記念に発行された私の思い出に出版されている。この期間の記述は最小限で終えたい。私はこの事業の積極的参加者というより、それを驚きながら眺めていた目撃者であったからである。それは私自身の経験に留まらず、全ドイツ人の経験であった。

とても刺激的で驚異的で、誇張なしにドイツ人の偉大な歴史の一部を記したと言えよう。老伯爵は熱狂的に英雄視されていた。この感情の最も顕著な例は疑いもなく、人々から寄せられた600万マルクを越える醵金であり、エヒターディンゲンで暴風のために彼の飛行船が失われた僅か2~3日のうちに全国から寄せられたのである。それは驚嘆すべきことであった。

伯爵が意気消沈して翌日フリードリッヒスハーフェンに戻ったとき、駅に集まって沈黙し脱帽した群衆の傍で、私は「閣下、おめでとうございます。」と挨拶した。そう言ったとき彼は驚いて私を見たが、そのとき既に夜を徹して百万マルクを超える醵金が、新しい飛行船の建造資金として集まっていたのである。

それは奇跡であった。人々の期待を担って行われた壮挙は大惨事により潰えたが、ツェッペリンの夢を消してはならないと、ツェッペリンの作業場に、かつてない確固たる資金が確立したのである。如何なる事情にせよ、人々がツェッペリン伯爵に6百万マルクの寄付を申し出たという非常に重要な事実がそこにあった。この資金で、彼は直ちに新しい格納庫と新しい飛行船を建造した。

しかし、次に何をすれば良いのだろう?軍の飛行船部隊は、まだそれほど関心を抱いてなかったので多くの受注を期待できなかった。エヒターディンゲンの惨事は、実際には単に正当性を立証し、政財界の懐疑論を強化しただけであった。

このような状況で、伯爵が見出した輝かしい開発のアイデアを持つツェッペリン社の精力的ビジネス経営者、コルスマン氏がドイツ飛行船運輸会社(die Deutsche Luftschiffahrt-Aktien-Gesellschaft)、略称DELAGの設立に尽力した。この会社は、飛行船を発注し、それを運用し、飛行船に降りかかる諸問題を解決するために設立されたのである。

序(2)

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