それで彼は、おそらくはやる心でフランツ・ヨーゼフ・ランド沖で難破した彼の仲間の足跡を見付けようと思ってマリギンに行ったのであろう。
きっとツェッペリン船上に来たかったに違いなく、私もこの飛行でこのあと彼を迎えたがったが、そのときにあることが起きて出来るだけ早く飛び上がることを決心しなければならなかった。
微かに水面を波立たせていた軽風は、飛行船船体上部の高さでは明らかに水面より強く吹いており、そのために飛行船はシーアンカーを曳いて動いていた。
私は郵嚢が交換される間、気になって眺めていたが開水面に居り、そこに漂っている限り何も変化はなかった。
しかし、多くの氷塊があるところに出ると浮かんでいる飛行船のゴンドラの一つにぶつかって孔を開けるおそれがあった。
大量の漏れは危険である。それで私は出来るだけ早く郵便を交換して、浮揚に備えて万全の準備を整えるように指示を出した。実施したが、氷塊の上でもつれたシーアンカーを曳くことは容易なことではなかった。
がっかりして、おそらく当惑しているマリギンから来た人を下に残して、まもなく1600フィート以上上昇し、隣の島が北の方に見えなくなった。
マリギンに乗っていたドイツの大新聞の特派員はそのことを、我々がマリギンの人達に非常に思いやりのない態度で振る舞ったという不平を短い記事に書いていた。
「若者は、その両親のことを早く忘れるものだ!」
彼は、我々が訪問者を船上に招いてお茶でもてなすと約束していたのに、それも果たさずそれほど急いで浮揚したのか理解していなかったのである。
浮氷の困難に加えて、我々のいる高い山に囲まれた狭い場所には「静音」がある。
ただ、マリギンの近くに降りるためだけにそこに繋留したが、そうでなければ何もない広い開水面を選び、停泊位置としてシーアンカーを入れ、ゴンドラを水上船舶のようにしていたであろう。我々はしばしば、ボーデン湖やエルベ河口でこのようにしていたし、それは危険も困難も伴わずに出来た。
大きな氷塊を押しつけて氷錨として繋がなければならなかった。それが出来ることで、飛行船が実際に極地探検に役に立つのである。
穏やかな天候であれば、ほとんど何時も北極海の何処ででも飛行船が開水面か平らな氷に降りることが出来、多種類の観測を行うことが出来るが、そのためには飛行船に空飛ぶ研究室のように必要な計器を積んでおく必要がある。
フリチョフ・ナンセンがそれを考えているうちに、飛行船による北極探検協会「アエロアークテック」の霊感が閃いたのである。
今なお、北極海の広い範囲の領域はほとんど未踏の地である。
マリギンと合流したあと、グリニッチ時間1800にもう一度、この探検の関連作業をしようと思った。
まず、そこで使ってる群島地図の正確さを確認することにして、そこで大きな間違いを訂正した。
2000フィートまで上昇し、そこから徐々に3300フィートまで昇ると、その高度から航空写真機で広い範囲の写真を撮ることが出来る。