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陸を越え、海を越え

B022

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

1931年の北極飛行(2)

こうして、少なくともその飛行の運航経費の大部分を賄うことが出来た。

私は「アエロアークテック」の会長就任を受諾し、北極海飛行を了承した。

私はウィルキンス計画の結果を予想した。

彼は米海軍から旧式潜水艦を手に入れていたが、とても良い状態とは見えなかった。アメリカ沿岸で故障したあと、非常にゆっくりとノルウェイに回航し、トロントハイム港でその船を修繕した。

それにはとても時間が掛かり、彼を待って出発すれば、夏になって北極の視界条件が悪化する一方で、もうこれ以上彼を待てなかった。

ウィルキンスは、全然出発の準備をしようとしないので、彼の件は全て取りやめになったと考える人達もいた。

私はかつて、ウィルキンスは果敢で非常に信念を持つ人間であると聞いていたのでそれを信じなかった。彼は、そのアイデアの実現性について岩のような確信を持っていた。

北極海で飛行船と水上船舶が出会うというハースト・ウィルキンス計画が沙汰止みになったと考えられ、飛行船と砕氷船に変更された。ロシアの大型砕氷船マリギンが、7月はじめにフランツ・ヨーゼフ・ランドに科学調査に出発することになっていた。

ロシア政府に連絡を取り、フランツ・ヨーゼフ・ランドの近くでグラーフ・ツェッペリンとマリギンを合流させ、郵便物を交換することを持ちかけた。

これが公表されると、世界中の切手蒐集家が大喜びした。

蒐集家から、あわせて650ポンドの郵便物を受け取り、それをフランツ・ヨーゼフ・ランド沖でマリギンに渡し、マリギンからはその代わりに270ポンドを受け取るのである。

この件で、飛行にかかわる主要経費は、大部分 我々が負担した。手紙と葉書の平均重量はおよそ4分の1オンスであり、結局5万通以上の郵便物を運ぶことになった。

北極飛行をしようとする我々の意図は、気象学者や飛行船の専門家を含む多くの人々によって大きな賭であると考えられたが、今日でもおそらくそうであろう。

これには主な理由が2つあった。

第一に、霧や雲、それに雪が大きく阻害して北極海の航行を危険に曝すと思われた。

第二に、飛行船の凍結の危険性が非常に危惧されていた。

その何れも間違いであった。

この地域の航行の難しさについて ナンセン、アムンゼン、ウィルキンスなど私がこの件で話し合った極地の専門家の話によれば、極地では、一般的に言うと中央ヨーロッパや北アメリカの秋や冬のように低い雲や霧に覆われることは少ないということであった。当然ながら霧や雪嵐は極地の秋から冬にかけてよく発生し、初夏まで続くこともあるが、地域的に限定されているという。

世間で信じられているのとは逆に、冬から春まで極地では天気が良く、視界も緯度で南の地域より良好で、ただ真夏のはじめだけは北極海の広い海域で霧の塊が広がるのである。

しかし危険を伴うことなく、衝突の恐れもなく何時間も霧や雲の中を飛ぶことが出来、注意深く開水面上に留まれば、スピッツベルゲンやフランツ・ヨーゼフ・ランドのような群島が見えるまで沖合にいることが出来る。

良い飛行船を上手く操縦することにより、常に燃料に余裕を持っていればエンジンを低速運転して2~3日、滞空していることも出来る。

「凍結」の危険性は、飛行船に関して多分に誇張されていると思う。

飛行船は、それほど急に「氷結」しない。

北極飛行(3)

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