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陸を越え、海を越え

B021

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

1931年の北極飛行(3)

よく知られているように、暴露部の金属部品 -例えば支柱、ワイヤ、尾翼や舵面の先端部- は結氷点になると、霧や大気中の湿気、それに過冷却された雨が固い氷となって早くしっかり結氷するが、完全に飛行船の外部ではそうはならない。そこでは結氷の進展が非常に遅いのである。

この理由を、外部のカバーは金属の支柱と対照的に熱伝導が悪いからだと私は考えている。

従って、冷たい層に入ったり、温かい層に入るには時間があり、それによってまわりの空気層が常に危険な凍結を避けられる。極地では、秋や春における霧や雲塊の温度は、当然 北部および中央ヨーロッパ地域の水温とほぼ同じである。

しかし、私が知っている限り、第一次世界大戦中 冬季に航行中、ごく稀に支柱やワイヤに厚く固く結氷したことはあるが、ツェッペリンが氷結により危険な状態に陥ったことはない。

1916年の冬に、ロシアのバルト海沿岸で雪嵐のために、雪の重みでツェッペリンを1隻喪失したことがある。

しかし この場合、飛行船司令は 長時間、猛吹雪の中で格納庫を探し続け、遂に飛行船は雪の重みで地上に落ちたのである。もし、数百フィート高く飛んでいたら、雪は乾燥しており 伴流で吹き飛ばされ、飛行船は空中に維持でき、天候が回復したあと格納庫を見付けることができたかも知れない。

他の細々としたことはさておいて、飛行船を極地で運用する際の大きな問題は、航法に磁気コンパスもジャイロコンパスも使えないことである。

しかし、実際には北極飛行で緯度81度を超えているのに、ジャイロコンパスが使用できたのである。ともかく磁気コンパスよりずっと先まで使用できた。

さらに、今日では船位を確定するために無線航法が用いられるが、このほかに太陽コンパスとも呼べる方法がある。

私の意見を述べさせて貰えれば、夏季に航法上あるいは地理学上の必要上北極海で飛行船を用いることは、ツェッペリンが数百回の飛行で、その能力を実証した南海、熱帯、それにもっと大変な気象状況で飛行したことに較べると、それほど難しいことではない。この意見は強調されすぎていると思われるかも知れない。今は北極海のまわりに無線局ネットワークがあり、どこからでもこれを利用することが出来る。

我々の北極飛行は、この意見を証明するためのものだったのかも知れない。人は稀に見る好条件だったから出来たと言うかも知れない。そんなことが誰に判るだろう?

帰還してから、その飛行のことを好天に恵まれたと書いたが、私は決して「自然との闘い」について述べようとは思わない。しかし、そこを実際に通らなければならなかったと思っている。

当然ながら重要なことは、北極飛行で強制着陸に備えて、乗組員や飛行船に衣類や食料、装備を準備することである。この極地用装備は専門家の助言に基づいて選ばれ、最終的に11200ポンドにのぼった。この探検に同行する46人の、1人あたりにすると240ポンドである。寝袋と橇は、非常用食料や猟の道具、コンロなどより重要で決して忘れてはならない。

そうしてあらゆる不測の事故に備えて準備が出来たので、1931年7月24日にフリードリッヒスハーフェンを出発した。

最初にベルリンに向かった。一つには装備の一部を追加するためであったが、それよりももっと燃料を積み込む必要があった。高度1200フィートのフリードリッヒスハーフェンよりもベルリンではおよそ9000ポンド揚力が増えるからである。

ベルリン上空で数回旋回した。ここの人達は当然ながら北極飛行の「冒険」を大層興奮して見上げていた。特に、ノビレの飛行の悲惨な終焉の記憶が生々しかったのである。

「ノビレは何を間違ったのだろう?」
彼は悪天候には飛び込まなかった。

北極飛行(4)

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