フリチョフ・ナンセン。極地探検家であるとともに、疲れを知らない多忙な人道主義者で有名な人物、小さなノルウェイの誇りと栄光、多くの著名な人達から尊敬された人物、そのフリチョフ・ナンセンが1926年に「飛行船による国際北極探検協会」という名の組織を設立した。略称を「エアロアークテック」という。
この組織には様々な国から多くの著名な地理学者が参加し、その名称が示すように飛行船を用いて北極探検を行うのである。
その協会の事務局長で、以前飛行船指令をやっていたワルター・ブルンスを通じて、ナンセンが私に飛行船を北極探検に使用することを打診してきた。
私は長時間、ナンセンと話をした。
そして、一緒に - 彼は非常に豊富な北極地帯の気象に関する知識をベースに、私はツェッペリン飛行船の運用限界の判定に関して - 、遙か北の氷海を地理的に探検航行するための現実的手段として、飛行船に勝るものはないという結論に達した。
その当時(1928年)、私はそんな飛行を、即座の判断で計画し飛行する状況になかった。前章で書いたような重要で緊急な事項を抱えていたのである。
そして、1929年にナンセンは突然死亡した。
その結果「エアロアークテック」の役員会は私をその協会の会長に指名した。
私は、栄誉ある申し出ではあったが受けることを躊躇した。「エアロアークテック」の会長として、飛行船の運用に倫理上の義務が課せられるのは明らかであり、それは出来るだけ早く協会の目的を遂行する私の判断にかかわることであったからである。私が会長を受諾したのは、そのような私の意志以外のものによるところが大きかった。
そのこと以外にも北極飛行の難しい資金問題を抱えており、大きな経験になることは間違いなかった。
それで私は直接ドイツ政府、首相に相談することを決めた。そうすべきだと思ったのである。
私は首相と会見し、問題を説明した。彼はしばらく考えてから、次のようにその考えを述べた。
先ず、私が国際協会でナンセンの後継者として成功することは望ましいということ、次にドイツ・ツェッペリンの威信の点で、北極飛行に参加することも望ましいということであった。
しかし、政府としてはこの飛行の実施に当たって財政的支援を行うことは出来ないと言うのである!
こんな状況で、支援は別の方向から来た。それは、ウィリアム・ランドルフ・ハーストの支援であったが、ほんの可愛いものであった。最初、ハースト氏は北極飛行に興味があるかどうか、そしてその支援をするつもりがあるかと訊かれたとき、彼の答えは否定的であった。ツェッペリン特集記事は彼にとってあまり興味がなかった。特に、北極に関するノビレの冒険がこの上ない大騒ぎになっていることが気に入らなかった。
しかし、ある人物がこの件を全く別の観点から捉えて現れた。極地探検家のヒューバート・ウィルキンス卿である。
ウィルキンス卿は、既に何度もアラスカから出発した険しい探検の話を聞いていたし、特に北アラスカから大胆にもスピッツベルゲンに飛んだことも聞いていた。
彼は今回、北極に潜水艦で行き、モグラのように氷を掘って地表に出る独創的な氷掘削螺旋錐によるとんでもない案を提示した。
ウィルキンス氏は私のところに来て、北極で会おうと提案してきた。私は「やりましょう。あなたが北極で本当に上がってくるのであれば」と静かに答えた。
それで、ウィルキンス氏はウィリアム・ランドルフ・ハースト氏のところへ行ってその説明を行った。本当に偉大で、奇想天外な新聞人の話である。
ハースト氏はその話に、楽しみと疑いを持ちながら同意したと思う。契約では私の懐疑を計算に入れて、その上で新聞読者に興味本位の話を準備したのである。
それにはこう書いてあった。「もし、飛行船と潜水艦が北極で出会い、乗客と郵便物を交換したら、ハースト社は飛行船上での報道権に対して15万ドルを支払う。もし、飛行船と潜水艦が北極で出会っただけならハースト社は10万ドルを支払う。そうではなくて、北極のどこかで出会っただけならば3万ドルしか支払わない。」
それには、私が同意したと書かれていた。ヒューバート・ウィルキンス卿に提示された内容は知らない。
本心で言えば、私はこの契約には第3のケースでもあまり確信がなかったがそれに署名した。それが我々の飛行にとって非常に大きな広報の機会であり、蒐集家に対する切手の販売に大きな影響をもたらすからである。