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陸を越え、海を越え

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Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

南米航路(13)

そのころ飛行船「ヒンデンブルク」が完成し、ついに初めて2週間間隔のスケジュールで南米への飛行が可能となり、「グラーフ・ツェッペリン」は 時々ドイツやヨーロッパで短い飛行に従事することになり、乗務員は幾分蔑んだ調子で「サーカス飛行」と呼んでいたが、広報と財政的利益の両面で非常に価値のある事業であった。

南米飛行のフライト回数は、1933年の9回から、1934年には12回、1935年には16回、「ヒンデンブルク」の運用が開始された1936年には、その7回を含め、合計で19回になった。

郵便物の量も1回あたり、往復でおよそ450ポンドから800ポンドに増え、件数にして5万件を越え、1件あたりの重量は僅か4分の1オンスであった。

速達や小包郵便もそれと同量空輸した。

1934年に「グラーフ・ツェッペリン」が運んだ貨物と郵便物は全部で2万4千ポンドとなり、この中には75万通の郵便が含まれていた。1935年には90万通の郵便を含む3万1千ポンドとなった。

ブラジルとの間で行き来した乗客の人数はそれぞれ、400人、500人、720人と増え、「ヒンデンブルク」も飛んだ1936年には1500人に達した。

これは1937年5月の「ヒンデンブルク」の喪失で突然終わりを迎えたが、輝かしい進展を示しており、ヒットラーの政策で中止させられなければきっと再興した筈である。

リオからは、直接フリードリッヒスハーフェンに帰る以外の飛行も行っている。例えば、前章で述べたように1933年10月には合衆国に飛んでおり、1934年6月にはブエノスアイレスにも行っている。

我々が南米航路を成功裏に確立したのは、スペインとアルゼンチンの話を持ちかけられたことが発端になっており、従って 差し当たりドイツとブラジルの間の連絡を行っていたが、私は未だブエノスアイレスまで拡張する可能性に望みを持っており、この都市を訪問するように招待を受けたときは嬉しかった。

それには2つの理由があった。

一つには、アルゼンチンの興味をつないでおくことは良いアイデアであると思っており、そのためには飛行船を見て貰うことが良いと思ったのである。

もう一方では、我々の気象調査飛行を系統的に拡張する希望を持っており、そのためにリオの南の気象条件を経験しておくとことが良いと考えていた。

カナリー諸島からバイア、リオの近くまでの貿易風帯では、そこの大気現象やそこで発生する事象も含めて馴れていた。しかし、リオとブエノスアイレスの間まで足を伸ばすとどんな状況なのだろう?

船乗りの間では、アルゼンチンの大草原から頻繁に吹き出してきて、大型帆船のマストを2、3秒で折るという、台風かカリブ海のハリケーンのような、パンペロと呼ばれる危険な暴風のうわさがある。

その影響は海域を越え、ラプラタ河の河口からサントス、リオの北にまで及ぶという。

私自身、1921年にアルゼンチンで2、3度そんな嵐を経験したことがあるが、それはリオの陸続きの北部での経験であり、そのとき初めてその物凄さを知ったのである。

しかし、それは陸上のことであった。

パンペロ前線は、海上ではどうなるのであろう?

運がよければブエノスアイレスへの途上でパンペロに遭えるかも知れない。

半分は恐れ、半分は遭遇を願う気持ちであった。

南米航路(14)

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