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陸を越え、海を越え

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Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

南米航路(2)

6週間にわたるアルゼンチン訪問で気象条件の調査を終え、レメンタリア氏とアルゼンチンのイロゴエン大統領に、セヴィリア・ブエノスアイレス間のツェッペリン空路は申し分なく、飛行時間はおよそ4日間になるだろうと説明することが出来た。イロゴエンは、そのような連絡が出来ることに非常に興味を示した。

しかし、その時点で計画は実現しなかった。ドイツとスペインに友好的なイロゴエンは退き、非常に慎重なアルベア大統領に代わったのである。しかも、スペインはモロッコのリフ内乱の対応に手一杯で、アルフォンゾ国王とプリモ・デ・リベラはセヴィリアに飛行船格納庫を建設する暇も金もなかった。

しかしながら、8年後に交渉が再開され、スペイン資本の参加を得ることが出来、レメンタリア氏が再び推進役を務めることになった。私は再度ブエノスアイレスを訪ねたが、この時はフレミング船長とともにハンブルクからドイツの定期船カップ・ポロニオに乗っていった。

ブエノスアイレスでは、アルゼンチンの大統領との交渉を調整してくれるはずのスペインの元大臣ゴイコエチェアと会う約束であった。赤道を越える3度目の旅で、天候の調査をさらにつめることが出来、定期的な飛行船の運航に適したルートであるという明確な結論に到達することが出来た。

ブエノスアイレスではゴイコエチェア大臣に会うことが出来なかった。彼はウルグァイに行っており、そこでスペイン企業のために仕事をしていたのである。

それで、我々自身でその案件の交渉をせざるを得なかったが、アルゼンチン社会に影響力のある人達が興味を持ち始め、専門家のアドバイスをとても熱心に聞いたので、それほど難しいことではなかった。この社会の、富は気前よく使うという雰囲気では事業に必要な基金を設立することはそれほど難しいことではなかった。事実、政府の担当官との商談は非常に望ましい方向で進展したので、我々は次に飛行船格納庫を建設できる場所を探した。拠点であるヨーロッパから非常に遠いので発着場に格納庫は絶対的に必要であったからである。

しかし、私が約3百万ペソと見積もった資金は最終決定に至らなかった。それで、殆ど何も得るところなく現地を発ったが、少なくとも多くの人々を相手に微かながら束の間の手応えを感じることで精神的に満足していた。アルゼンチンは今日でも当時と同じようであろうか?

次に、リオ・デ・ジャネイロ行きのハンブルク南米ラインの小さな汽船で、その船の寄港する幾つかの港、例えばリオ・グランデ・ド・スル、フロリアノポリス、サントスなどを見るために旅に出た。

リオでは、以前ティエラ・デル・フエゴまで乗船したカップ・ポロニオに乗ろうと思った。そんなことで一週間過ごし、ブラジル政府に掛け合ってみようと思った。かつて何度もブラジルはヨーロッパと結ぶツェッペリン定期便に大層関心を持っていると聞かされていたからである。

驚くことはない!アルゼンチンとブラジルは、長年にわたって文化、政治の両面で南米の主導権を争ってきたライバルだったのである。リオでは南ドイツ出身でツェッペリンの構想に強い関心をもっている商務大臣ビクター・コンドルと長時間にわたる会談を行った。

しかし彼は、私がツェッペリンの定期運航を行うためにはリオに飛行船格納庫が絶対的な前提となると言ったとき、何となく疑わしそうであった。

ブラジルは、少なくともその当時、財政的な基盤が弱く、通商の進展は外国の支援に頼っており、特に合衆国に依存していた。私はしばらく、リオへのツェッペリン空路の開設は難しいのではないかと思った。

どこから手をつければ良いのだろう?

幸い、良いアイデアが浮かんだ。私が自分で観測したところによると、ルートは本当に貿易風帯で、季節により多少の変動はあるが、北緯25度と15度の間、南緯15度と25度のあいだの気候はとても安定しており、大きな気候変動は殆どなく、格納庫なしで繋留柱のみで運航できることに気がついたのである。

従って、ペルナンブコのレシフェを常設発着場にして、そこからリオまでは短時間の着陸のためだけの短い飛行にすればよい。当然、安全とペルナンブコへの定期運航はリオでの強い要望によるものであり、その国の出来る限りの資金で南米空路の終着ターミナルに充当されると期待した。

南米航路(3)

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