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陸を越え、海を越え

LZ17@Recife1

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

南米航路(3)

それで、ペルナンブコ州の知事に会い、繋留マストと 飛行船にガスを充填するためのガスボンベ貯蔵所を備えた発着場を建設することを提案した。知事は快く同意してくれ、あまり知られていなかった港町レシフェが、世界最初の大西洋横断空路が南の基地として使用することになると世間の注目を浴びることになった。

同じ理由でセヴィリアの街はその前から同様な発着場になっていた。さらにセヴィリアは、飛行船が非常に強い向かい風の貿易風に遭い、燃料を補給しようとするときスペインの南岸で補給することの出来る非常に重要な補助基地となった。当然のことであるが、2人以上の乗客がそこまで搭乗するときはそこに寄港した。

9年間にわたる、時には非常に行き詰まった交渉の結果、ようやく念願の文字通り航空史上でも画期的な大西洋横断ツェッペリン空路の基盤が整備されたのである。

もし、第二次世界大戦が勃発しなければ改良されながら今なお賑わっていたことは間違いなく、また、そのとき戦争のためだけに費やされた膨大な予算が使えたなら、これに代わって大洋を横断する飛行機の開発は実現しなかったかも知れない。

私は、画期的な南米空路の民間航空事業には絶対の確信があった。最初の旅で知り得た知識で、私が1921年にはじめて無風地帯で雷雨を伴った驟雨前線に遭遇したときから、南米ルートはツェッペリン飛行船にとって安全に飛行できると確信していたのである。

そして、最初の飛行は世界を刮目させるために、セヴィリアからレシフェを経てリオに、リオからレシフェ経由レークハーストに、そしてレークハーストからセヴィリアに飛ぶ、私たちが「三角飛行」と呼んでいた航路でお披露目することを考えていた。

1930年5月18日、午後5時過ぎ、グラーフ・ツェッペリンは南半球への飛行に出発した。

約7千マイルにおよぶリオデジャネイロへの飛行の最初の区間、つまりジブラルタルまでは我々にとって目新しいものではなかったが、いつもの通り新しい楽しみの始まりであった。

おそらく、飛行船の旅で 広いボーデン湖を越えて南にアルプスを眺めながら眼下に広がるパノラマの心地よい眺めは美しいコンスタンツの街並みと、そこからシュヴァルツヴァルトの深い絶壁に沿って「沢山の古い城塞の苔むした遺跡のそばを流れる」ライン川を見下ろす光景であろう。

そこから、さらにシャフハウゼンの懐かしい街、ヴァルトシュット、ザッキンゲンなどが人の作った一連の真珠のように点在し、ラインの滝がラウフェンで自然の輝きを放っていた。眼は、この視覚的な眺めを大いに楽しみ、素晴らしい眺めを心に焼き付けて、歴史や文化を思い起こしていた。

大都市バーゼルでは熱狂した群衆が波のように押し寄せ、ブルゴーニュの緑の丘の上から狭まったローヌ渓谷にわたると右手にセベンヌ山脈の岩壁が、左手には聳え立つ4000mのモンペルー山の氷河が迫っていた。

古代ローマの文化を伝えてきたビエンヌ・オランジュ・アヴィニオンなどの街に迎えられて、その線上の南端には、現在活き活きと活動している大都市マルセイユが現れてきた。

いよいよ地中海に来た。リヨン湾上である。その白く寄せるような砂嘴には小型ヨットの乗った人達が見えた。ここが穏やかなことは滅多にない。冷たいミストラルがアルプスの麓から狭いローヌ渓谷を音を立てて吹き下ろすか、ビスケー湾から吹き込んだ強風がピレネー山脈沿いにリヨン湾に荒々しく吹きつける。

スペインの東岸は、日中そこを飛ぶ旅客に、途切れることのない美しい眺めを見せてくれる。しかし、地中海に到達したときは日暮れであったので、バレアレス諸島を横切るコースをとった。気流は海上の方が安定しているからである。乗客は熟睡し、朝7時にダイニングサロンで朝食の席に着いていたときにカルタヘナの方へ転舵した。ここで、スペインのガータ岬のある南西隅をかわすために少しのあいだ陸上を飛び、乗客に昔のムーア人の農業のあとを見て貰った。現在、この土地は乾燥し不毛であるが、今なお昔からの潅漑水路が丘の中腹に残っている。

アルメリアの後背では海岸線の上を高く昇り、1時間ほど雪を頂いた美しいシェラネバダの山脈を眺めた。

南米航路(4)

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