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陸を越え、海を越え

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Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

世界周航(8)

しかし、台風は逸れていった。午後10時にニコライエフスクに着くまで非常に良い天気で、南から南東の軽風であった。その後、北東から雲が現れた。まもなく雲は厚くなり辺りはすっかり雲に覆われてしまい、もう海面は見えなくなった。これは両側にどちらも高い山の連なるサハリンとシベリア本土のあいだの狭い海峡を通っているので、あまり好ましくなかった。

その頃、東に移動している台風の北東にいた。その結果、徐々に北よりの追い風となり飛行船は台風の後を追って南に飛んだ。このためサハリンの山岳に吹き寄せられないように、さらに西に舵をとるよう指示した。このときシベリア本土に近付いていたらフェーン現象により良好な視界が得られたと思う。そんなわけで2~3時間、厚い雲のなかを航行していた。その後 雲は幾分薄くなり、毎秒15~16mの北風に後押しされていることが判った。

計算は間違っていなかった。夜明けに北海道の西側に居り、午前6時には積丹半島の神威岬燈台の上を飛んでいた。そこから雨の中を函館の大きな燈台に向けて飛び、雨が上がって本州沿岸を進んだ。

この世界周航のうちで最も長く、最も困難な部分を無事に乗り切ることが出来た。この先も我々の前には、社会的にも政治的にも責任のある問題が控えていた。

次の着陸点は霞ヶ浦であり、遠くにその格納庫が輝いているのが見えた。そこは非常に賑やかであった。数十万人の人が飛行船を見るために道に溢れていた。

後で聞いた話では、数千人の男女が夜通し、長距離を飛来する飛行船を待っており、女の人のなかには背中に赤ん坊を負ぶっていた人も居たそうである。歴史的意義のある出来事を目撃しようとしていたのである。

高速汽船で1ヶ月近く掛かり、シベリア鉄道でも2週間以上掛かる距離を、西方はるか遠くのベルリンから飛行船は4日足らずで来たのである。

過去2~30年にわたって中央ヨーロッパと遠くはなれた東洋から、謎めいて危険な人達がその当時の反感にもかかわらずひしめき合うように行き来する数が増え交流しているのである。

いまや、空を飛べばこんなに早く来ることが出来るようになった。

この壮挙を東京の人々に見て貰うために、まず首都・東京へ飛び、そこから世界中から来た沢山の客船が投錨している港、横浜に向かった。この2つの街の街路や広場で繰り広げられた興奮と熱狂の情景を記載するのは省略して、ただ沢山の人の中にいたひとりの詩人が群衆の熱狂の様子を詩にしていたことを紹介するに留める。

1時間半の飛行の後、夕刻 霞ヶ浦飛行場に着陸した。飛行船は有能でよく訓練された日本海軍の水兵によって手際よく格納庫に収容され、海軍が警備にあたった。

東京にはまるまる6日間滞在した。我々のために周到に用意された歓迎行事やレセプションが計画されていたが、ハイライトはドイツ大使館で夕方行われた茶席であった。そこには在日ドイツ人の殆どが出席していた。

翌朝 出発の準備を整えたが、残念ながら出発は出来なかった。飛行船を格納庫から引き出すときに、飛行船を支えていた台車の1つが外れて、船体構造の桁を傷めてしまった。それで、そこにいた海軍高官のなかで騒ぎになった。「どうしてこんなことになったのだ?」部下が飛行船を引き出していた不幸な将校は、恥ずかしさで立ちつくしてしまい、その場でクビになりそうになった。私は彼を弁護して、説明を求めていた提督たちにこんな事故は台車がうまく調整出来ていないか、石かなにか小さな物が軌道に挟まったときによく起こることであると説明した。事前のテストで台車を動かして見るべきであった。

結局彼らはその将校を弁護することで納得し、我々は日本中が注目しているなかで報道関係者に説明を行った。その日は飛行船の補修にかけて、夜中まで掛かって損傷を修復した。

次の朝、出発しようとした。しかし、天気を司る神が異を唱えた!前日の午後、暗い台風のような嵐が吹き荒れて、翌朝も強い風が格納庫に吹き付けて飛行船を引き出すことは出来なかった。待たざるを得なかった!

将校や提督たちが出発のために再び参集した。私は格納庫正面の椅子に腰を下ろして待っていた。風がおさまったらすぐに飛行船を引き出すために誰も外に出さなかった。

そして、そのときが来た。午後3時に離陸したのである。公式には認められていない大群衆は心から見送ってくれた。

世界周航(9)

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