まだ「ヒンデンブルク」が新しく建造された大型格納庫で建造中に発行されたタバコカードアルバム "Zeppelin-Weltfahrten" によると、ツェッペリン伯爵が最初の飛行船の構想は1873年に生まれたとされている。彼は1887年にヴルテンベルクで、カール帝に操縦可能な飛行船に関する構想を提示したがそのなかには飛行船の果たすべき使命についての根本的な考え方も含まれていたと記されている。
しかし、1894年に皇帝の招集した委員会に硬式飛行船の構造基本設計図が提出されたが、それは繰り返しそっけなく却下されるばかりであったと言う。
1896年にドイツ技術者協会(Verein Deutscher Ingenieure)に呼びかけて精力的に働きかけた結果、伯爵はドイツ産業の代表者数名による80万マルクの資金援助を得て「飛行船旅行助成会社」(Gesellschaft zur Förderung der Luftschiffahrt)を設立し、1899年にマンツェル沖のボーデン湖上の木造格納庫で最初の飛行船が建造を建造した。その飛行船は長さ128m、直径11.7m、ガス容量11300立方mであった。
第一回目の浮揚は1900年7月2日の夕刻8時に行われ18分空中に留まったが、重錘を用いたトリム調整機構がうまく作動せず、長い船体の中央が挫屈して湖面に落ちた。このときは伯爵を含む5人の人間と350kgのバラストを載せていた。
フランクフルター・ツァイトゥンク紙から依頼を受けてエッケナー博士が現地で観察しレポートしたのは10月17日の第2回飛行である。このとき1時間以上飛行している。第3回は10月21日に短時間飛行して一連の実験は終了し飛行船は解体され水上格納庫も処分して清算され、会社も解散された。後に「LZ1」と呼ばれる最初の飛行船であった。
それから5年後、助成金で建造された水上格納庫で建造された「LZ2」は、カール帝に認可された宝くじの売り上げやアルミニュームメーカーの材料提供などを受けて伯爵の個人資金で建造されたが、唯一度の飛行で操縦不能のまま30km先に不時着し全損となった。
このときエッケナー博士は車で不時着現場に行き、老伯爵が「LZ2」の解体・撤去を指示しているのを目撃している。このとき伯爵は67歳であった。その状況を、操船手段など飛行船の基本設計上の問題の考察を含めてフランクフルター・ツァイトゥンクに掲載した。これを読んだ伯爵が、いつものように正装でフリードリッヒスハーフェンのエッケナー博士宅を訪ねている。このとき伯爵に招待されて、エッケナー博士は哲学博士・経済学博士から飛行船の世界に入って行く。
ついで建造された「LZ3」は陸軍に納入することが出来たが初期トラブルはあったようである。陸軍は機能不備といい、ツェッペリン側は運用上の問題と主張していたらしい。
1908年6月に完成した「LZ4」はそれまでの実績で改良され、成功作と見られており、陸海軍も注目していた。6月20日に試験飛行を終えて、長距離飛行に挑戦した。フリードリッヒスハーフェンからメーアスブルクを経由してコンスタンツ上空に到達したあと西へ向かい、シャフハウゼンからラインの滝を見下ろした。その後回頭し、ルツェルンまで南下したあとチューリッヒに戻り、そこから東へ向かってオーストリアのブレゲンツを訪れたあとボーデン湖の北岸沿いにフリードリッヒスハーフェンまで戻ったのである。飛行時間12時間、距離にして380kmという大飛行であった。
陸海軍の採用条件は24時間の連続飛行と、水上ではなく陸上での離着陸であった。
これを実証するための24時間飛行が、陸海軍の試験官を乗せて8月4日に実施されることになった。早朝フリードリッヒスハーフェンを離陸した「LZ4」はライン川に沿ってバーゼルに向かい、ラインにそって北上しシュトラスブルク、シュパイヤー、マンハイム、ウォルムスと航行した。
ウォルムスのあたりで前部エンジンが故障したが連続飛行試験中であり、空中にホバリングしてエンジンの修理を試みた。この間に真夏の太陽に照らされてガスが膨張し、上昇を始めたのでガス圧調整弁から水素ガスを放出した。日が傾き気温が下がり始め、揚力が低下してきたのでライン川に仮停泊して数時間かけて前部エンジンを補修した。
離陸の際、ガスを放出したため浮力が低減し、それまでの重量を空中に維持出来なくなったので乗員数名と相当量の載荷を降ろしている。やっとの事で帰途についた「LZ4」であったが、100kmばかり南下しシュットゥットガルトの近くまで来たとき再度、前部エンジンが故障してしまった。
シュトゥットガルトの南、エヒターディンゲン近くに不時着し、シュトゥットガルトのダイムラーの工場から焼け付いたエンジンの交換部品を取り寄せる手配をした。伯爵はエヒターディンゲンでフリードリッヒスハーフェンと連絡を取り、部品の到来まで近くの店で休息していた。午後、突風が吹いて繋留索で繋いでいた「LZ4」が吹き飛ばされ、ガスに引火して炎上してしまった。
この事故でツェッペリン伯爵の危機を救えとドイツ全国から醵金が寄せられた。2~3日の間に激励の手紙や600万マルクという信じがたい額である。数年前まで気違い発明家とか馬鹿伯爵とか言われていた伯爵はドイツの希望の光になっていた。
この資金で1908年9月に「ツェッペリン飛行船製造社:Luftschiffbau Zeppelin GmbH」が設立され、アルミニューム工場主カール・ベルクの娘婿、アルフレート・コルスマンが社長に就任した。この人物は伯爵が見つけて就任を要請したのであるが、なかなかの人物であった。彼なくしては後のツェッペリン・コンツェルンはなかったかも知れない。軍部はまだ飛行船にそれほどの関心を示して居らず、新しい建造用格納庫は造ったものの受注は期待できなかった。
ちょっと脇道に逸れるが、ツェッペリン伯爵の成功の裏には、あのカリスマ性だけではない何かがあると常々思っている。その一つに有能な人材を発掘して、その人に全てを任せる度量を挙げることが出来る。ここで述べた、コルスマンやエッケナーのほかに「LZ1」建造当時の1900年に飛行船建造に加わったルードヴィッヒ・デューアもその1人である。彼はその後の全てのツェッペリン飛行船を設計している。
1909年11月にコルスマンは「ドイツ飛行船運輸会社:Deutsche Luftschiffahrts Aktien Gesellschaft -DELAG-」を設立した。ドイツ国内の主要都市と共同出資で各都市間のエアライン・ネットワークを目指したのである。最初は2時間程度の遊覧飛行を始めたが人気は上々であった。
このときエッケナー博士が対外広報・渉外担当役員として招聘され、後にコルスマンの推薦でDELAGの社長に抜擢されている。エッケナー博士の最初の仕事はフランクフルト、ケルン、デュッセルドルフ、バーデン・バーデン、ミュンヘン、ドレスデン、ハンブルクなどの市長に飛行船事業の広報活動を行うことであった。多くの大都市の市長がDELAGの役員になり、それぞれの街に飛行船格納庫が建設された。
DELAGは順調に資金を獲得し、ツェッペリン飛行船製造に「LZ7」の建造を発注し、完成した同船に初めて「ドイッチュラント」という固有名詞を命名した。しかし、この最初のDELAG船「ドイチュラント」は1910年6月にエンジン不調で不時着し、トイトブルクの森で立木に当たって解体された。
不適任として解任された「LZ7:ドイッチュラント」船長の後任としてエッケナー博士にやってみないかと声をかけたのもコルスマンであった。
エッケナーは飛行船運航技術を習得し、1911年2月にツェッペリン飛行船運航技能試験に合格し、DELAGの飛行船運用部長に就任した。ツェッペリン飛行船製造では「LZ7:ドイッチュラント」の代船「LZ8:ドイッチュラントⅡ」が建造され、そのころ就役している。当時のツェッペリン飛行船では船内でワインがサービスされているがエッケナーは大のワイン通でもあった。
エッケナーは「ドイッチュラントⅡ」の船長として30回程度遊覧飛行を行ったと言われているが、この飛行船も5月にデュッセルドルフの格納庫に乗り上げて解体されてしまった。DELAGの出だしは必ずしも順調ではなかったようである。
しかし、エッケナー氏の著書によれば、その後建造された「LZ10:シュヴァーベン」、「LZ11:ヴィクトリア・ルイゼ」、「LZ13:ハンザ」、「LZ17:ザクセン」の4隻の飛行船で1910年から第一次世界大戦の始まる1914年までに2000回以上の飛行を行い、1万人以上の乗客を乗せて飛んだという。
ヘルマン・ヘッセも招待されて1911年7月23日にフリードリッヒスハーフェンで「シュヴァーベン」に乗船し指揮しているエッケナー博士と二言三言言葉を交わし、発泡ワインを飲んだとその著書で述べている。
このDELAGの飛行船運航により、船長、操舵手など操船要員の教育・訓練が継続的に実施され、飛行船の運航マニュアルが整備されツェッペリン飛行船の基盤が確立されたのである。そればかりではない。陸・海軍の飛行船部隊から将校・下士官などが乗船し訓練を受け経験を積むことが出来た。
1914年6月28日ボスニアの首都サラエボで、オーストリア・ハンガリー帝国皇太子フランツ・フェルディナンドがセルビア人に暗殺された。オーストリアの外相はセルビア政府に10箇条のオーストリア最後通牒を送付したが、セルビア側はオーストリア官憲を容疑者ガブリロ・プリンチプの裁判に参加させることに同意せず、これに納得しないオーストリアは7月25日に国交断絶に踏み切った。首相も皇帝も躊躇するなか28日にはセルビアに対して宣戦を布告した。誰しも数日でおさまると思っていたが、セルビアの独立を支持するロシアが7月31日に総動員令を発令し、ドイツは8月2日に対ロシア、翌3日にはフランスに宣戦布告を行った。イギリスは8月4日にドイツに宣戦布告、カナダまで参戦し、第一次世界大戦に拡大していった。
まだ、飛行機はやっと飛べる程度であったが、ドイツ陸海軍は飛行船部隊を増強し、ノルトホルツやトンデルンなど北海、バルト海沿岸を中心に飛行船基地を設営した。
開戦後、遊覧飛行に運用されていたDELAGの飛行船も、失われた「LZ10:シュヴァーベン」を除く「LZ11:ヴィクトリア・ルイゼ」、「LZ13:ハンザ」、「LZ17:ザクセン」が軍に徴用されている。
この戦争で陸海軍あわせて88隻のツェッペリン飛行船が就役している。このほかシュッテ・ランツ社製飛行船も20隻以上投入されているがここでは、これら軍用飛行船の事例は扱わない。しかし、これだけ多くの飛行船が運用され、不具合・損傷を含めた運航実績で次々と建造される飛行船の設計と運用に反映されている。
(写真は「LZ10:シュヴァーベン」船上の伯爵と博士である。:タバコカードアルバムから)