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奇跡の復興

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ツェッペリン伯爵は第一次世界大戦中の1917年3月8日、滞在先のベルリンで急性肺炎にかかり、手術の甲斐もなく亡くなった。享年78歳であった。伯爵はドイツの敗戦を見ることなく亡くなったが、ツェッペリン飛行船製造とDELAGを引き継いだエッケナー博士にとって飛行船事業を継続することは至上命題であった。

1918年10月29日にヴィルヘルムスハーフェンで暴動が起き、11月3日にはキールで水兵の反乱が起きた。

11月9日に帝国議会議事堂でドイツ共和国が宣言され、翌日ヴィルヘルム2世は退位してオランダに亡命した。ワイマール共和国の成立である。そして11月11日、パリ郊外のコンピエーヌの森の列車のなかで休戦協定に署名が行われ第一次世界大戦は終わった。

1919年1月18日にパリで講和会議が開会された。6月28日にヴェルサイユ宮殿の鏡の間で調印式が行われたのでヴェルサイユ条約とも呼ばれている。

連合軍はツェッペリン飛行船を根絶やしにしようとしていた。残存する飛行船も格納庫も賠償として取りあげた上、1919年6月28日に締結されたヴェルサイユ条約では東洋やアフリカの全植民地を放棄させられ、ドイツ全土の面積の1割以上をポーランド・フランス・ベルギーに譲渡し、1320億マルクの戦時賠償のほかに所有する商船の9割を連合軍に引き渡しただけでなく以後の5年間に20万トンの新造船の提供を課せられた。

しかし、エッケナーやレーマンは、このヴェルサイユ条約発効の前に、ツェッペリン飛行船の存続を図って果敢に努力を講じていた。海軍向けに建造中であった「L72(建造番号:LZ114)」をアメリカのと定期航路に就航させようと準備を急ぎ、1919年3月始めには準備を完了し、ワイマール政府に許可申請を打診したが、政府当局も駐米大使も外交関係に懸念があると認めなかった。

しかし、何とかして飛行船事業の火を消すまいと残った資材で国内向けの商用飛行船「LZ120:ボーデンゼー」を建造した。

関根氏は、その著書「飛行船の時代」で、「LZ120:ボーデンゼー」が1918年8月に完成し、ベルリン・フリードリッヒスハーフェン間を6時間で結び、料金は450マルクと高かったが20席の客席は一週間まえに満席となる盛況で、8月末から12月のオフシーズンまでに101回の飛行を行ったと述べているが、大戦の休戦がその年の11月であるから、おそらく1919年の誤りであろう。

平和条約には、ドイツでは3万立方m以上の飛行船の建造を禁止すると規定されていたが、「ボーデンゼー」は長さ120.8m、2万立方mと、それまで建造されたツェッペリン飛行船のうちで最も短く、ガス容量も1914年以降建造されたものの中で最も小さかった。平和条約で規定された容量に余裕があったため後に延長工事が行われ、乗客用キャビンの仕様向上が図られた。

同型船の「LZ121:ノルトシュテルン」は改造後の「ボーデンゼー」にあわせて建造され1921年に完成している(関根氏の著書によれば1919年末)。この飛行船はスウェーデンとの間の定期運航を目論んで建造されたもので、エッケナー博士も「ボーデンゼー」で2度ストックホルムを訪問したが結局実現には至らなかった。

    (工事中)   

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