LZ127Profile

LZ120:ボーデンゼーおよびLZ121ノルトシュテルン

LZ120_5

3. Die BODENSEE im regelmäßigen Passagierverkehr(Herbst 1919)

3. 定期旅客飛行船「ボーデンゼー」(1919年秋)


3.1 フリードリッヒスハーフェン・ベルリン間定期運航

「ドイツ飛行船空輸株式会社は、(中略)本年8月18日より運航スケジュールに従って、ベルリンとボーデン湖畔のフリードリッヒスハーフェン間で、スイス汽船と連絡した飛行船運航を実施する。飛行船「ボーデンゼー」は、初期のツェッペリン飛行船を改良した最新式で、(中略)さきの戦争の期間を通じて多大な犠牲を払ったが、その経験を活かして運航することになる。残念ながら、該船が当面のあいだ、この種の唯一の飛行船となる。たえず続くストライキと騒乱で、次の飛行船の建造が遅れているためである。(中略)DELAGのすべての広報活動ならびに乗客の申込み窓口は、戦前と同じようにハンブルク・アメリカ・ラインが代理店を担当する。DELAG自体は、同様にHALが代理店となっているドイツ空輸会社と利益共同体として提携している。
当面は次のような運航スケジュールである。ベルリン→フリードリッヒスハーフェン便は、その月の奇数日にベルリンを出発し、フリードリッヒスハーフェン→ベルリン便は、偶数日にフリードリッヒスハーフェンを出発する。」

1919年7月にDELAGの公式発表の概要が出来上がった。この中で予告されたよりも1週間ほど遅れて「ボーデンゼー」は満席で、悪天候のなか初の定期運航によるベルリン飛行に出発した -確信を持っていた乗組員は、距離を確認するための試験飛行を省略したのである。
8月24日の10時頃、飛行船は出発した。エッケナーが指揮していた。船上にはベルリン、ハンブルク、シュトットガルト、コンスタンツ、バーゼル それにストックホルムから10人の特派員が乗船しており、それにハンブルク・アメリカ・ラインの広報担当者、および3人の女性と9人の男性が乗客として乗船していた。12時には眼下にニュルンベルクが見えた。それから「ボーデンゼー」は嵐と突風のなかで持ちこたえた。16時に首都上空に到達し、17時にLZ120は無事シュターケンに最初の着陸をすることが出来た。次官と職員が乗客を出迎えた。
ベルリン周辺の旋回を除くと、実質の飛行時間は6時間以上掛からなかった。 - つまり、最初の試みで、HAL(HAPAGの慣習的呼称)が宣伝用ポスターで謳っていた7時間よりも短い時間だったのである。乗客が船上レストランの営業を、ポスターに宣伝されているように「第一級」と感じたかどうかは伝えられていない。

新しいDELAG-HAPAG飛行船ラインのパンフレットには、既に「ベルリン-南独-スイス(領域)を6~7時間で」という見出しが載っていた。
しかし、そのなかで運航予定、運賃、拡販助成条件について探したい人は、ほぼ9ページにざっと目を通さねばならず、その3分の1は飛行船旅行についての記事が載っており、そのあとに文章が続いている。それは次のように始まる。
「太古から人間は、奥行きのある世界への憧れ、陽光のもとで脚下に広がる近くの光景を眺め、空気の流れが広がる眺望の喜びに酔いしれることをどれほど望んでいたことであろう?」
そして、飛行船航行とDELAGの歴史を少し振り返ったあとは、飛行船の下を通過するボーデンゼーやアルプスの眺め、それにベルリンとその近くのハーヴェルゼーの景観についての熱狂的な描写が続く。
「長い鉄道旅行のように身体がほこりまみれになることはなく、神経の疲れもなく、しかも予測したこともない新しい感動で心は満たされる。(中略)それから、急いで車に乗って大都市の混雑の中に、もぐり込むように入って行く、人知れず喜びに満ちてまるでおとぎの国からやってきた王子様のように。ちりにまみれた人々には、それが魔法の力で遠い国から空を飛んで運ばれてきたとは想像も出来ない。」

このロマンティックな広告文、この旅行スタイルの宣伝は75年前に書かれたものである。
実際には、飛行船の運航で偉大な成功をおさめたのはスピードやレストランの営業ではなかった。眼下に大地を見下ろせることが、最高の贅沢として常に賞賛されていた。そして今日、ただ残念なのは、その再現が不可能だということである。

さらに、1919年9月16日付けのミュンヘンの新聞 H.A.F.の通信員の随筆を読んでみよう。
まず、彼は快適な鉄道旅行によって「疾走する景観とのまっとうな関わり」が失われたことへの遺憾を示し、飛行船の新しい様式が、2倍の速度を達成しながらも「ひどい味気ない鉛の錘」から解放されたことの喜びを伝えた。
その饒舌な細部描写のあとで彼は次のように言い添えている。
「一つ一つのの景色のさまざまな特徴を、広く一望できるこの唯一の展望によって味わい理解できるということは、こうした運航においてもっとも啓発的なことかもしれない。最初に、恵まれたシュヴァーベンを概覧して、比類のない大きな庭園の上を飛び(中略)豊かさではやや劣ると懸念されたオーバーバイエルンの高地が続く(中略)樹木の生い茂った山の頂、切り立った斜面、深くえぐり取られた渓谷が数多いオーバープファルツは、第3の全く見事なドイツの景観であった。そこに対し、それほど魅力的ではなかったのが(中略)果てしなく続く、代わり映えのしない東部テューリンゲン一帯と、ライプチヒを中心とした広い平野である。それから5番目の、また全く新しい光景が見えてきた。松と松林や森に縁取られた憂鬱な雰囲気の砂地のブランデンブルク辺境がハーフェル河岸とともに確認できた(中略)これらの典型的なさまざまな特徴を、ずっと以前から人々は列車から見て知っていた。これほどまでにはっきりと、これほどまでに一つにまとまった形でこうした風景が現れたことはなかった。」-そして、ミュンヘンの通信員にとって驚きであったのは「航行全体の中での頂点が、ミュンヘン上空の旋回飛行であったことである。」

我々の航空便DELAG-HAPAG-パンフレットに戻る。
(カレンダーの偶数日に)フリードリッヒスハーフェンを離陸する時刻は、スイスからの汽船到着に合わせて10時と決められた。ベルリンのシュターケンには、およそ17時に到着することになっていた。そこで「ボーデンゼー」は(奇数日の)9時に離陸して、16時頃フリードリッヒスハーフェンに到着し、そこで南への連絡船に接続していた。後にも述べるが、ミュンヘンに途中着陸する場合には時刻が変更になった。

「一般的な目的で飛行する」ばあいには、当面なるべく早く予約することが奨められた。それより重要に考えられたのは「個人的責任のもと」で飛行に参加する場合には、DELAGが法的に認められる範囲で賠償責任の対象外とされたことである。
このことは今日、多くの航空会社の慣例に影響を与えている。LZ120の指令が航行不可能と判断した場合には、乗客は理由の如何を問わずDELAGに乗船料払い戻しの要求は出来なかった。航程の変更や、やむを得ない中断あるいは離陸や着陸の遅延については何の補償もなかった。
出発の前に、(気象状況の影響その他)予測できない理由で飛行船の浮力が減少したときには、最後に申し込んだ客が乗船を諦めなければならなかった。
申し込んだ客が遅刻した場合、あるいは全然姿を見せなかった場合には(「ノーショウ」)、乗船料金の払い戻しを要求することは一切出来なかった。

そのため、偶然生じた不都合も支障もなく目的地に行くことが出来たのは幸運であった。
乗客は、旅行社が離陸のときまで街の中心部にあり着陸時も市街地にあってたまたま長時間一緒に行くことは、その当時既に納得できない問題であると感じていた。
その問題は今日、よく知られている。
これは当然、反発や苦情を招いた。旅行会社から促進された離陸までと到着から市の中心部までに掛かる時間を全部あわせると「ボーデンゼー」による航行のほとんど半分にも及ぶことを、当時の乗客は奇妙で煩わしいことであると感じていた。この問題は、今日われわれがよく知っている通りである。
ベルリン、ウンター・デン・リンデンのHAPAG事務所の「搭乗手続き」は、遅くとも出発時刻の2時間前にしなければならなかった(バスでシュターケンからの移動は運賃に含まれており、およそ1時間を要した)。
「フリードリッヒスハーフェンでは:飛行船格納庫から街への距離、あるいは船着き場(ロールシャッハやロマンスホルンへの連絡船)への距離はとても短く、乗客は徒歩で行くことが出来た。悪天候の場合は連絡を利用することも出来た。」乗客たちは、手荷物を持っておよそ20分の距離を曳いて歩いたのであろうか?それはポーター(やタクシー)を利用するほどの距離である。

今日、航空便で乗客は「無料手荷物」を利用することが出来るが、LZ120も同様で、基本的にその制限は15キログラムであった。
当初15キログラムであったが、9月中旬以降はこの制限をオーバーする場合には、ボーデンゼー・ベルリン間では1キログラムあたり5マルク支払わなければならず、総重量が30キログラムを越える手荷物では、1キログラムあたり10マルクであった。手荷物の寸法は60センチ×60センチ×120センチに制限されていた。

運賃事態は当然ながら必要であり、かなり高かった。
それはボーデンゼー・ベルリン間(ミュンヘンに途中着陸なし)で、およそ中級サラリーマンの2ヶ月分の収入相当額であった。
最初は400マルクに決められたが、9月には450マルクに、10月1日には575マルクにもなった。
ドイツの貨幣価値が暴落したことだけでも、その大幅な値上げの要因となった。
それに加え、相対的に非常に高かったガソリン価格が高騰した。
必要な量の燃料を調達することは次第に困難になってきた。ある報告では次のように述べられている。
「飛行船『ボーデンゼー』を運航するためのガソリンを調達するためには相当な努力が必要であった。1919年には、同時にスイスから亜麻仁油を入手することによってのみ可能であった。
亜麻仁油の自由化はそれ自体、販売と同じであった。」

インフレーションに関しては、中立国の国民と戦勝国の大部分が利用しており、言わば常連であった。
彼らは、自分たちの貨幣制度における運賃だけを支払えばよく、戦前の鉄道旅行に較べて特に高いものではなかった。
スイス人は、しばしばベルリンに行く必要があったし、北欧人は仕事上で南ドイツやスイスへ行かねばならないこともあったので「ボーデンゼー」の起点まで長距離飛行を利用しなければならなかった。飛行船の航行による時間の節約で、この経路に掛かる時間を補うことが出来た。
当然のことながら外国からの乗客は、それぞれの自国におけるメディアのレポートによりツェッペリン飛行船へのよい宣伝になった。
コルスマンは、W.C.ヘンズレイ大佐(既述のように:合衆国陸軍の飛行船関連代理人)がボーデン湖畔のフリードリッヒスハーフェンを訪問した際に「ボーデンゼー」を利用したときのことを回想している。彼は、6月に初めて東から西への大西洋横断を達成した「R34」によってアメリカから飛来して、その用向きを伝達したのである。
「”ボーデンゼー”は、最新式の飛行船で、未だかつて見たことがないほどの高い完成度であった。そのため、私は見解を述べずには居られなかった。すなわち、他のすべての国々が飛行船の建造や取り扱いという点では『森を彷徨う子供』さながらであると。我々は自分たちの飛行船とその運用を最良のシステムにしなければならなかった。そして、私の考えではそれを達成できるのは唯一ドイツだけで、他には考えられなかった。」

すべての乗客は優雅で快適な客室を賞賛し、赤色のクッションが備え付けられた肘掛け椅子、大きく一部取り外しの出来る窓や、冷たいものや温かい飲み物と冷菜などで喜んでいた(但し、葉巻を吸うことを禁じられて不満を抱いた乗客もいた)。当然ながら設備の整った充分に広い空間と静粛な快適さは、当時の飛行機の貧弱な座席とは大変な相違であった(もっと言えば、今日の海外空路では、古い映画で見るように、窮屈な座席にむりやり押し込まれて、旅行というよりもむしろ輸送と言った方が近いのではないだろうか?)。
また11月14日には、この素晴らしい飛行のハイライトである飛行船上で弦楽四重奏団の演奏が行われている。

10月中旬に、ハインリヒセンという名前で、「ボーデンゼー」で北に向かって乗船したヴァイマールのカウフマン・エバーレにとって、そのような文化的なイベントはほとんど無価値であった。
新聞によれば、この気障な偽小切手使いは、シュトットガルトで3人の幇助者が逮捕された際に一度捕まっていた。エバーレは自動車でフリードリッヒスハーフェンに向かい予約することが出来、うまく乗船することが出来た。そしてベルリンで「その足跡を再びくらました」のである。

いずれにせよ当時、昇降舵手であったアルバート・ザムトが報告している乗組員の「犯罪行為」は、それほど重大なものではなかった。
「その当時、食料品補給事情は非常に悪かった。すべて配給で、闇取引は厳重に取り締まられていた。ある日、税務署の役人が2人来て、飛行船で豚肉をベルリンへ密送しているのではないかと私に容疑をかけた。
そんなことは知らないし、第一 事実とは思えないと彼らに言ったが、彼らも自分の眼で確かめれば納得するだろうと私は思った。
私は一緒に飛行船を探索しようと申し出た。正直なところ、あまり良い気分はしなかった。
しかし、仮に乗組員が実際にそんなことをしていたとするなら、その豚をうまく隠しているだろうと思った。税関吏が飛行船を見て回り、私は彼らにすべてを説明した。しかし、豚肉の捜索は無益に終わった。その後、ベルリンで豚のご馳走を振る舞う祭りに招かれたとき、それがベルリンの豚でないことが判った。そこに集まった陽気な人達から、私は秘密の不法行為が何処に隠されていたのかを聞き知った。彼らは半分を乗客用ゴンドラとガス嚢の間の隙間に縫い込み、残りの半分は下部安定板に詰め込んでいたのである。」

しかし、乗務員はただ、狡猾なだけではなく、すべてに熟練し経験豊富であり、彼らのうち殆どが海軍飛行船の乗組員であった。
そのうちの2~3名の名前は後述することになる。通常の乗組員数は12名であった。指令、「航海士」(当直士官、後の一等航海士に相当)、昇降舵手と方向舵手が各1名、通信士、6名の操機手とスチュワードである。
指令と航海士は、当然ながら一時的に昇降舵手、方向舵手の任務を代行し、航海士は通信士の業務を担当することも出来た。
2組のクルーが交替して乗務した。
一組はハンス・クルト・フレミング船長とイングヴァルトセン(およびアルバート・ザムト)航海士の配下で、もう一組はアントン・ハイネンと航海士アントン・ヴィッテマンのもとで乗務した。
世間で非常によく知られているのはヘッドウェイターのハインリヒ・クービスで、1910年には既に世界最初のエアスチュワードとしてDELAGで就業していた。
彼は後に、世界周航や北極探検飛行などLZ127「グラーフ・ツェッペリン」のすべての主要航行に乗船している。彼はその後、LZ129「ヒンデンブルク」の乗務員になり、1937年に起きたレークハーストの惨事を生き延びた。「ボーデンゼー」の乗客、特に外国人は、感激していつもチップをはずんだ。それはレジに集められ、年末に乗組員の「自由に使える金」として使われた。

傑出した技量の乗組員と非常によく造られたこの新造飛行船のおかげで、とても困難な局面に遭遇しても、それを克服することが出来た。
1919年11月12日の新聞には次のような記事が載っている。
「ツェッペリン飛行船『ボーデンゼー』は、昨日フリードリッヒスハーフェンからベルリンへの飛行で、技術的観点から特筆すべき快挙を達成した。
飛行船は、午前9時にフリードリッヒスハーフェンを24名の乗客と、スイスからの多くの郵便を含む郵便物を載せて飛び立った。
離陸時は晴天であった。
100キロメートル航行したのち、吹雪と深くたれ込めた雲のなかで方向の確認が出来なくなり非常に困難な状態に陥った。
『ボーデンゼー』は方向を見失わないように羅針儀で航行しており、非常に低高度を飛行していたため、無線局のアンテナを降下させることが出来なかった。
降雪と位置確認の困難にもかかわらず、飛行船は輝かしい様相を呈していた。それは、ハイネン船長が『ボーデンゼー』がホーフの近くを飛行していたとき、午後1時にシュパンダウに、3時にベルリンに着陸するという無線連絡をしたという事実によって証明できる。
そして事実、飛行船は3時5分にシュターケン空港の上空に姿を見せ、順調に着陸した。」
「ボーデンゼー」は短時間、ギリギリで飛行し辛うじて地表を航行した。
ザムトは次のように述べている。「そこで、水面上に浮かんでいた。そうでなければ、我々は膨張したガスセルから高度100メートル当たり1%ずつガスを失うところであった。その結果、飛行船は重くなり大破していたかも知れない。
従って、我々はフィヒテル山脈を横断する際、バート・ベルネック近郊の雪山の非常に狭隘な峡谷を進み、どこかに接触しないよう注意を払わなければならなかった。我々は深い林道に沿って、後部エンジンゴンドラが文字通り森をかすめながら飛行し、なだらかな連山を越えた。
ときには、なるべくガスの放出を抑えるために、大変低いところを飛ばねばならなかった。
にもかかわらず、外気温が高く、ガスが冷えたままであったため、重量オーバーの状態で飛行船がシュターケンに到着したことも何度かあった。
そこで我々は実際に着陸するにあたって、飛行船を軽くしバランスをとって着陸出来るようにするため、バラスト以外の機材を投下した。それはいつも非常にうまくいった。例外はあったが・・・」
ザムトは、その「例外」について、後に一節として書き留めている。

ただ一度だけ、航行を中止しなくてはならなかったことがある。11月24日にベルリンから南に飛び立ったあとのことである。逆風が異常に強く、目的地まで安全に航行するには対地速度が少なすぎたからである。
航行一覧(略)を分析した結果によれば、ボーデンゼー・ベルリン・ボーデンゼーの航行は、8月24日から12月5日までの記録上で(毎日、偶数日には北航、奇数日には南航するという広告された計画を実現することが出来れば)可能とされた51回のうち、38回実施されている。
ただ、特別運航の次の航行区間、および追加運航を考慮に入れた場合、実際には7、8回の飛行が中止になっている。
そのほとんどは、サービスと修理作業が必要になったからであった。そのうち3度は、シュターケンで強い横風により格納庫から曳き出すことが出来なかったことによる(そのためには、方向転換可能な格納庫が必要であった。そして、30年代に普通に使われるようになった軌条付繋留柱があれば、障害を取り除くことが出来たであろう)。

残念ながら、LZ120の航行についての記録は現存していない。以下に示すのは、DELAGに引き渡された、最後の4度の業務についての航行記録である。

LZ120は、9時28分にフリードリッヒスハーフェンを、ハイネン船長以下(増員された)17名の乗組員と26名の乗客を乗せて、ガソリン2.0トン、140キログラムのオイル、500キログラムのバラスト水を搭載して出発した。5時間7分の航行のあと、シュターケンに着陸し、その間の速度は毎時122キロメートルであった。エンジンは、ほぼ1000キログラムに近いガソリンを消費した。時間あたりほぼ200キログラム消費したことになる。
着陸12分後に飛行船は格納庫に収容され、80名の地上支援員の助力で定位置に保持された。

「ボーデンゼー」は12月1日にベルリンに向けて最後の航行を行い、12月5日に最終的帰港を果たした。まだ、実験運航、全面的な分解検査と船体の延長工事が予定されていた。それに加えて、気温が下がり、客室も寒くなった。
DELAG-HAPAGは「船旅-快適-会社、ハンブルク」に属する旅行サービスを旅客に提供した。 - しかし、決して無料ではなかった。
その利用に対して(わずか)料金10マルクが請求された。旅客は、それでも寒がった。
一人のスイス人はある航行(おそらく最終日の12月5日であろう)にほかの17名の乗客と一緒に乗ったときのことを、50年後になっても忘れてはいない。文字通り、凍結した飛行であった。冷たい料理しか提供されず - トイレもなかったのである。

凍てつく寒さをどうやって凌いだのであろうか?凍るような寒さを防ぐものはただ、たくさんの火酒だけであった。ついでながら:航行は、夕食、宿泊、フリードリッヒスハーフェンでの朝食を含めて75スイスフランであったという・・・。

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