1918年11月11日、ドイツは降伏した。第一次大戦はその終わりを迎えた。しかし、勝利した連合国は、講和条約の条項を発表するまでにまだ半年を要する見込みであった。
フランスのフォッシュ元帥が11月のある日、コンピエーヌでドイツの全権大使に要求した休戦に関する諸制約は厳しいものではあったが、多くの条約案の内容は全く決まっていなかった。それを無邪気に喜んだが、それも束の間、その翌年それは無惨にもぶち壊しとなった。コンピエーヌで、ドイツ派遣団は1700機の戦闘機と爆撃機を直ちに連合国側に引き渡すことに署名したが、航空に関するほかの要求はまだ未調整であった。
15隻の大型海軍飛行船が、ヴィトムントハーフェン、ノルトホルツ、アールホルン、ユッターボク、サッディンおよびゼーラッペンで浮揚ガスを抜いた状態で保留になっていた。
これらは、ツェッペリン飛行船製造社とシュッテ・ランツ社の工場で建造された106隻の硬式飛行船の残存船で、陸軍と海軍により偵察と爆撃に使用されたものであった。それらは1914年に「戦争の決定的兵器」として考案された期待を満たすことが出来なかったのである。その飛行船の3分の1は敵軍により撃破され、ほかの3分の1は敵の影響なしに破壊され、残りは老朽化のために廃棄されたか、戦争を生き延びたものであった。
軍が絶え間なく新たな要求をしたことにより、4年間にわたる戦争の間に猛烈な技術進展がもたらされた。飛行船の長さは156メートルから226メートルに、容量は22100立方メートルから68500立方メートルに増大した。自重は揚力の65%から51%に減少した。それに相応し、積載重量は9トンから51トンに増え、静的上昇限度は2000メートルから6500メートルとなった。エンジンの総出力は3倍になり、馬力あたり重量は半減し、その結果 最高速度は毎時73kmから125kmに上昇した。
戦争の後半は、改良に改良を重ねる敵の飛行機が到達できないほどに高空に上昇させられるかどうかが、飛行船の生き残りをかけた課題となった。飛行機の搭載する焼夷弾が、水素を充填した胴体に命中すれば、それは恐ろしい結末を意味したのである。
そのような高々度を航行することは、乗組員に途方もない負担をもたらした。爆撃を受けた都市では -それは第二次世界大戦の地獄のような空襲の前触れとなった- ドイツの「野蛮人」に対する憎悪が増大し、その余波は特にフランスで長い間残った。
30年代になっても、LZ127が南米飛行をした際に、フランス領土上空を通過するのに多くの制限、つまり非常に不都合な条件を突きつけられたのは、こうしたことを背景にしている。
1918年8月5、6日の夜、新型飛行船群の最初の飛行船であり、就役5週間目のL70がイギリス沿岸で一機の飛行機により炎上、墜落した。生存者は居なかった。 -そして船上には、あの伝説的な「飛行船隊司令」であったペーター・シュトラッサー中佐が乗っていた。彼の死により海軍飛行船隊から、どんな疑念や諦念にも屈することなく飛行船作戦を遂行した一人の有能な指揮官が失われた。
9月6日、 -シュトラッサー戦死の1ヶ月後、終戦の9週間前- ドイツ海軍当局の秘密会議で「飛行船の今後の運用」に関する討論が行われ、結論が決まった。それにより、当然ながらフリードリッヒスハーフェンの飛行船製造社における生産縮小が決定された。議事録には、出席者として20名前後の海軍士官(艦隊、鎮守府、軍令部、飛行船隊、兵器廠、工廠、シュトラッサーの後任であるウェルター、それにフレミング、デートリッヒ中佐など)に加えて、一人の民間人が含まれていた。「ツェッペリン飛行船製造社:工学博士デューア取締役」と記載されていたのである。
はっきりしていたのは、次の一点である。すなわち、もし戦争が長引いていたとしたら、軍用飛行船の果たす役割は次第に小さくなっていたであろうということである。軍用飛行船の役割には、もはや爆撃は含まれず、遠距離偵察飛行のみになっていたのである。
「前線」は高度8000メートル以上で時速120kmの飛行船を要求した。コンプレッサーモーターは、最初水平に設置されていたので、飛行船を10万立方メートル以上にも拡大しなければならなくなり、そのような飛行船を収容できる格納庫はどの海軍基地にもなかったため、それはあっさりと却下された。6月にフリードリッヒスハーフェンでは容量75500立方メートルの試作船「L100」が発注された。その(製造番号LZ115)建造が間近に迫っていた。そして、試作型を108000立方メートルにすることが決定された。1919年6月には、この10基のエンジンを搭載したL100(LZ119)が起工されることになった。しかし、まもなく10月6日には発注が取り消された。もし取り消されなければ、このL100は、有名なLZ127:グラーフ・ツェッペリンほどの大きさになっていたであろう。
ツェッペリン飛行船製造社は、着工できる状態まで構想され、そのほとんど完成されていたモデルに建造番号LZ1(1900年)からLZ131(1938年)までの番号をつけ、海軍はツェッペリンから引き渡された飛行船にL1からL72までの識別番号を付けた。陸軍では敵を混乱させるために、例えばLZ90をLZ120などと呼んでいたが、当時の敵軍だけでなく今日のツェッペリン愛好家も混乱させている。
協議の結果、フリードリッヒスハーフェンとレーヴェンタルの格納庫では56000立方メートル船、L56、L61、L63、L64およびL65の船体を延長し、容積を68500立方メートルに増大し、出来たばかりの62200立方メートルのL71(LZ113)も同様に延長した。これらの改造は1919年2月までに完了させる予定で、そのほかに、すでに建造が進んでいたL72(LZ114)の完成、続くL73(LZ116)とL74(LZ117)の起工が予定されていた。これら新造飛行船はすべて、発注済みのL75(LZ118)とともに容積68500立方メートル、長さ226メートルで、6基のエンジンが装備されることになっていた。1919年6月までに、L74までの建造計画が実施できるであろうと考えられていた。
1918年10月12日、L63とL65が長距離偵察飛行に出発したが、悪天候のために中断せざるを得なかった。これが硬式飛行船による最後の出撃となった。