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大型旅客用飛行船の黄金時代(8)

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Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第2章: 大西洋横断旅客飛行船の夢(2)

休戦から僅か2ヶ月半後に、フリードリッヒスハーフェンとベルリンの間を運航する小型飛行船を建造することが決まった。この「ボーデンゼー」と命名された小型飛行船は体積僅かに706,200立方フィートであったが、370マイルの短距離飛行で20~26名の乗客を乗せて飛んだ。

新しく設計された「ボーデンゼー」にはツェッペリン飛行船製造社技術スタッフの旅客輸送に関する設計思想のすべてが織り込まれていた。戦前のDELAGの飛行船より格段に優れていた。客室は船体に取り付けられた長さおよそ80フィートの流線型ゴンドラのなかに配置され、操縦室はその前部にあった。

ゴンドラのなかは5つの区画に仕切られ、それぞれに4人の座席が用意された。広い窓からは下界の素晴らしい眺めを楽しむことが出来、スチュワードが軽食、高級ワイン、リキュールをサービスした。

ストレッチ型の姉妹船「ノルトシュテルン」はストックホルムへの飛行を予定して建造されたがドイツ国旗のもとで飛行することはなかった。

1919年末、両船は連合国の航空管理委員会に取りあげられ、イタリアとフランスに譲渡された。しかし、この設計の成功はその後の大型飛行船に反映されることになった。

第一次世界大戦に勝利した連合国は、彼等の国際的商用飛行船の競争相手となるドイツの飛行船産業を潰すことを決めた。ベルサイユ条約は全てのツェッペリン飛行船の解体、軍用格納庫・ガス発生施設の破壊もしくは引き渡し、建造用格納庫・飛行船建造工場の破壊を要求した。

これはツェッペリン飛行船製造社の終焉を意味したが、エッケナー博士はアメリカ海軍向けの最新設計の新造飛行船調達契約を獲得することに成功した。その見返りに米国政府はフリードリッヒスハーフェンの建造用格納庫と工場施設を、少なくとも「LZ126」の完成まで認めることになった。

連合国側の大使会議はツェッペリン社に対する米国海軍の承認を公式に認め、飛行船の大きさを2500000立方フィートに制限した。なおその上に、その飛行船は「商用目的」に使用するものと明記され、それ故必然的に旅客型にせざるを得なかった。

「LZ126」が最後のツェッペリンになるかも知れない可能性に直面して、エッケナー博士とスタッフは彼等の建造する最初の大西洋横断飛行船に堅牢で先進的な設計を行い、マイバッハの工場で特別に開発された新型400馬力のV12エンジンVL-1を装備した。5基のエンジンのうち4基はそれぞれ個別のゴンドラに搭載されて左右対称に取り付けられ、残りの1基は中心線上に配置された。

「ボーデンゼー」の場合と同じく船首部には、先端に操縦室のある長いゴンドラが設けられ、その後部には5つのコンパートメントが用意され、それぞれに4人の乗客を乗せ、座席は夜間にはベッドにすることが出来た。小さいけれどもよくまとまった電気式調理室、無線室、右後方には洗面所とトイレットが設けられていた。このように「LZ126」は20人の乗客が大西洋を横断する数日間快適に過ごせるようにうまく装備されていた。

ニュージャージー州レークハーストの米国海軍基地に、引き渡しのために飛行することになり、エッケナー博士が指揮して、大したトラブルもなく1924年10月の12日から15日にかけて81時間の飛行で大西洋を横断した。この飛行船は「ロサンゼルス」と命名されて8年間無事に就役し、その後経済性の見地から繋船されていたが、最終的に1939年に解体されている。

「ボーデンゼー」の旅客飛行のときのように「ロサンゼルス」の大西洋横断飛行の成功はアメリカ人の間で非常に大きい反響があった。このことがあって、先に述べたようにグッドイヤー・ツェッペリン社を立ち上げるときに、カール・アルンシュタイン博士と12名のツェッペリン社からの技術者が渡米してアメリカの会社の設計部門の中核となったのである。

ドイツ製の「ロサンゼルス」はツェッペリン社最後の飛行船にはならなかった。1926年5月7日の大使会議のあと、ベルサイユ条約のドイツ民間航空に対する制限が緩和され、ツェッペリン工場のそれ以上の破壊の話はなくなり、エッケナー博士は資金さえあれば自由に飛行船を建造できるようになった。

彼は大西洋横断定期飛行船を実現するためにドイツとアメリカの財界を説得しなければならなかった。

我々が1934年にフリードリッヒスハーフェンに赴任したときには「グラーフ・ツェッペリン」が偉大なパイオニアであった日々は過去のものとなっていた。

私は、この世界的に有名な飛行船で沢山の経験を積むために、リオ・デ・ジャネイロ航路を6往復するという、金銭で評価できない素晴らしい体験を楽しむことが出来た。

エッケナー博士の意向で、ツェッペリン飛行船製造のあらゆる活動の場に行くことが認められたし、殆ど乗組員と同じように扱って貰えた。

操縦室で3直体制の当直にも組み入れて貰ったし、しばしば方向舵や昇降舵を操作し、そのほか乗組員の一員として何処へでも行くことが出来た。

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第3章: 「グラーフ・ツェッペリン」(1)へ

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