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大型旅客用飛行船の黄金時代(9)

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Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第3章: グラーフ・ツェッペリン(1)

史上最も有名な飛行船、いやおそらく最も有名な航空機は「グラーフ・ツェッペリン」であろう。あらゆる意味で「グラーフ・ツェッペリン」はエッケナー博士の創作したものである。

同船を、大西洋横断を実証する船として思い描いたのも、それを操船して大胆にもスリル満点な航路開拓飛行を敢行し、ヨーロッパとアメリカの両地域で商用飛行船に関心を集めたのも、その建造資金を集めるために2年以上にわたって講演活動を起こしたのも彼であり、彼の構想力と実現のための熱意と実行力と、他国の飛行船が何隻も遭難しているなかで「グラーフ・ツェッペリン」の安全な長距離航行を可能にした、比類のない経験と知識によるものである。

「グラーフ・ツェッペリン」の信用も功績もエッケナー博士が評価されたことに他ならない。

「ロサンゼルス」が大西洋を横断してアメリカに納入されてから1939年に第二次世界大戦が始まるまでの15年間、世界で最も有名な人物であった。

彼の生涯を通して「グラーフ・ツェッペリン」の偉業は、資金不足という一つの問題につきまとわれていた。はじめにエッケナーはワイマール共和国政府の助力を受けることが出来ないと判った。特に航空関係の顧問団や以前戦闘機に乗っていた連中は秘密裏に建設中の空軍に手一杯で、軍事的に役に立たない「気球」にかかわっている余裕はなかった。

エッケナーは1908年8月にエヒターディンゲンで起きた「LZ4」の事故のあと、ドイツ人が寄付でツェッペリンを再建したことを思い出して基金を設立した。ツェッペリン・エッケナー基金を立ち上げると、1924年に大西洋横断の際に懸命に職務を遂行したハンス・フレミング、アントン・ヴィッテマン、ハンス・フォン・シラー、マックス・プルスなどの忠誠な支援が寄せられた。その後2年間にわたって大西洋を横断してアメリカまで航行するツェッペリンに関する講演、レセプションに誠心誠意努力を惜しまなかった。

そのPR活動により250万マルクの資金を集めることが出来たが、建造には400万マルク必要であった。それでも、事実上の経営者となったエッケナーにとってフリードリッヒスハーフェンで「LZ127」を起工するには充分であった。後日、ドイツ政府を説得して工事を完遂するために100万マルクを超える予算を支出させている。

新造船の大きさの上限は1918年の「L100」と同じく1916年に完成したフリードリッヒスハーフェンの大きな建造用格納庫2号の寸法で決まった。その内部空間寸法は、長さ787フィート、直径100フィート、高さ115フィートであった。「LZ127」の船体は長さ775フィート、直径100フィート、ゴンドラのバンパーを含めた全高は110フィートで、出入りするときの格納庫天井との空隙は2フィートであった。

長/幅比は7.8で、乗客の乗るゴンドラは全高を押さえるために遙か前方に配置された。「ロサンゼルス」の拡大版であった「グラーフ・ツェッペリン」の外観は、完全に流線型の「ロサンゼルス」より美しい形状になった。ガス容量は3707500立方フィートで、その時点までに世界で建造された最も大きい飛行船であった。フレームと呼ばれるリングの間隔は15mで、5m間隔で軽い中間フレームが2本配置された。船体はフレームで17の区画に仕切られていた。

満載しても3707550立方フィートの水素は入らなかった。最も大きな12区画には2つの気嚢があり、下の方は「燃料ガス嚢」と呼ばれ最大で10590300立方フィートの容積であった。実際の運航で、フリードリッヒスハーフェン・ペルナンブコ間の飛行では750000立方フィートの燃料ガスが搭載され、残りのスペースには、ほぼ100%の水素が充填されていた。

燃料ガスはほぼ空気と同じ比重でブラウガスと呼ばれていたが、これは色によるものではなく(ドイツ語で「青」はブラウという)、開発したヘルマン・ブラウ博士に因んだもので、合衆国のユニオン・カーバイド社で製造されていた。

私がフリードリッヒスハーフェンに赴任した時点では、外貨不足のためドイツ人は水素とプロパンを混合して彼等の燃料ガスを作っていた。不純なプロパンはキャベツを調理したときのような嫌な臭いがして衣類にしみつき、陸上の室内ミーティングではまわりの注意を引いていた。

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第3章: 「グラーフ・ツェッペリン」(2)へ

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