「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代
考えてみると、アメリカ人の私が「グラーフ・ツェッペリン」で、そしてその後の「ヒンデンブルク」でも何年も一緒に飛んだ親しい家族のように、乗組員に直ぐにすっかり受け入れられたことは驚きであった。
その上、彼らは決してアメリカから来た外国人のように扱わなかった。海軍の飛行船士官がときどき見学に乗船した。
1934年でも、ごく少数の乗組員はナチ党員であったが、同時にエッケナー博士に完全に忠誠であった。「ヒンデンブルク」の機関長であったルドルフ・ザウターはSA(突撃隊:茶色シャツ)で熱烈なナチであった。しかし彼は同時に立派な飛行船乗りであり、彼の立場はよく評価されていた。彼は完全に飛行船の維持・保守と機械類の扱いに責任のある立場であった。エッケナー博士が空軍省に呼ばれて、行けなかったときにザウターは茶色シャツのつながりでベルリンに行き博士の窮地を救ったことがある。ザウターは私をすっかり受け入れてくれて、私も数回 彼とその友人と旅行を楽しんだことがある。
ただ、「ヒンデンブルク」の当直士官であったハインリヒ・バウアーは疑問符であった。彼は薄ら笑いで、私の使命を「公のスパイ」としてマークしていた。彼の目は笑っていなかった。
私はエッケナー博士から南米を往復する「グラーフ・ツェッペリン」の洋上の長い航行から航海の方法を学んだ。
飛行船は比較的低速なので、風の影響を受けやすい。風の強さと方向の計測法を開発して、それを飛行船の航行するコースに適用するのである。我々の実施したような低高度の飛行で、航海士は1時間毎に「グラーフ・ツェッペリン」を針路から45度 向きを変える。偏流を考慮して最初は左舷にとり、次は同じように偏流を読んで右舷に向ける。夜間は、この偏流を読むために指令ゴンドラ後方の飛行船の腹部に取り付けられた350万キャンドルの探照灯の助けを借りた。風の三角形はこうして出来上がり、我々は正確な距離を確認することが出来、風の強さや方向を知ることが出来た。
我々が一度大西洋を横断したとき、この種の計算航法の正しさを証明するうってつけの例となった。1800マイルにもわたって何も地標がなく、航法は完全にこの方法で行われた。次の地標はフェルナンド・デ・ノローニャであったが、予想時間から数分の違いで針路上にその目標を捉えたのである。
比較のための天測航法は余分なもので、ラジオ・ビーコンは大雑把で正確とは言えなかった。
当初の方針は、航行する船舶と連絡がとれた場合、その船舶の位置を訊いて飛行船の位置を海上船舶との位置関係で補正することにしていた。まもなく、これは必ずしも正しくないということに気がついた。というのも海上船舶は、しばしば現在位置を正確に把握していないこともあるからである。事実、通常25~50マイル、彼らの考えている位置と違っていることを確認したことがある。それで位置が一致しない場合、我々は船舶の航海士に飛行船の位置から、その位置を補正することを奨める方針をとった。船舶の航海士は、我々と交信してもそれほど良い気分ではなかったかも知れない。
我々の用いていた高度計はアネロイド型であり、高度記録は晴雨計の機能の一つであった。短距離飛行の場合、高度計は正確に読み取られなければならないが、例えば飛行船が高気圧域から気圧の低い地域に移動するようなときは500フィート程度の誤差は生じうるものであった。このような誤差は着陸操作のような場合や、夜間もしくは霧の濃い天候では許容するわけには行かなかった。
高度を補正するために、晴雨計ではないエコロットという商品名の装置が「グラーフ・ツェッペリン」船上に装備されていた。この装置には、高度をメートル表示出来るように較正された反射式光発信器が用いられており、目盛りの最低表示はゼロであった。空砲を装填された銃で指令ゴンドラの脇から下向きに発射すると、反射光が目盛りの基点を指した。エコーが表面から返ってくると反射波が振動し、それから高度を読み取ることが出来た。エコロットを正確に読み取るには、ある程度の熟練が必要であった。また、乗客を煩わせないために夜間は使用しなかった。
ドイツ人達は、このほかにも工夫して高度を測定する、新しい正確な方法を考え出した。彼らはワインやビールを沢山飲んだが、瓶入りのミネラルウォーターも沢山飲んだ。そして、空になった瓶を「グラーフ・ツェッペリン」の船上にとっておいた。
前もって落下時間と、空のミネラルウォーターの瓶を投下した高度をプロットしたチャートが用意された。アネロイド高度計を補正するために、瓶を船上から投下し時間をストップウォッチで測定した。これで直ちに高度が確定した。瓶は「グラーフ・ツェッペリン」から南大西洋に(「ヒンデンブルク」では北大西洋に)、ローヌ川やライン川にあるいはフリードリッヒスハーフェン近くのボーデン湖に投下された。瓶投下による高度測定は夜間に利点を発揮した。サーチライトを使って計測できるからである。しかし、水上の飛行に限定されるが・・・。
気象は「グラーフ・ツェッペリン」の士官達にとって常に重要な関心事であった。彼らは乗客が困惑するからだけではなく、船体構造に無理な力をかけないように厳しい乱気流を避けること、なかでも雷を伴う嵐を回避するために都合の良い風を探すことを心掛けていた。
フリードリッヒスハーフェンからリオデジャネイロまでの、航路上の各地には固有の気候的特徴があった。ローヌ渓谷では通常ミストラルが吹いており、強い北風が谷に吹き下ろしていた。この現象は、イギリス諸島上空に中心を持つ高気圧が北西から北東に移動することによって生じるものである。ミストラルは山岳上空から吹き下ろす風が激しく吹き付け、突然風向きが変わるので飛行船の乗客にとって嫌なものであった。
これと反対の現象は、ドイツ人がフェーンと呼ぶ、地中海から吹く暖かい南風で、低気圧の中心が大西洋で減衰してビスケー湾とフランスを横切って地中海に来るときに吹くことが多かった。これがロシア上空の高気圧を伴って来るとき、通常は強風でなく適度な風力のフェーンとなる。
向かい風のとき、反時計回りの気圧低下の動きを伴い北大西洋を渡って西から東へと吹く。この向かい風に遭遇したときは通常、地中海上空を飛んでいるときかジブラルタルの西の辺りである。この場合の主な特性は強風ながらそれほど大きな気温の変化はない。特に10月、11月、12月にはローヌ渓谷を強い風が吹き抜け、地中海をジブラルタルに向かう。
ケープ・ヴェルデ諸島と、フェルナンド・デ・ノローニャの間の赤道無風帯は熱帯雨と突風を伴って向かい風になった。向かい風は北西から南西にむけて横たわり、これに遭遇したときは出来るだけ早くやり過ごすために飛行船の針路を左舷に変更した。気象の変動は非常に急激で、華氏9度から18度のような気温変化がしばしば起こった。すべての向かい風が雲や雨、暴風を伴うものではなかった。あるときは快晴で風向の変化や気温、湿度の変化をもたらした。
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