LZ127Profile

大型旅客用飛行船の黄金時代(16)

LZ127route1

Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第6章: 「グラーフ・ツェッペリン」の南米飛行(2)

出発の翌朝「グラーフ・ツェッペリン」は高度650フィートグラーフ・ツェッペリン」はリオ・デ・オーロ(スペイン領サハラ)の上空に達し、ボハドール以下でスペイン沿岸をジブラルタル海峡に向かって航行していた。乗客はラウンジの右舷船窓からバルセロナ・バレンシア・カルタヘナ・マラガの目の前に広がる空中パノラマを楽しんでいた。操舵室の海図上の通過地点はナーオ岬・パロス岬・ガータ岬であった。ジブラルタルには岩山があり、そこの海軍基地と地中海艦隊の艦艇は大英帝国の力を象徴していた。

夜になると飛行船は仏領モロッコの不毛な海岸に沿って南西に進み、タンジール・ラバト・カサブランカ・モガドールを左舷に見て航行した。翌朝「岬からアフリカ大陸を離れベルデ岬諸島に向かった。この陽射しの降り注ぐ諸島で飛行船は毎航、諸島の中心であるポルトプライアの町を過ぎて右に舵を取り、フォーゴ島の標高9281フィートの見事な火山頂ピコダコロアを通過した。

次の夜 飛行船は南大西洋を遙かに進み、3日目の早朝さらに1260マイル南下して『神の指』と呼ばれる高さ1089フィートの切り立った尖頂のあるフェルナンド・デ・ノロニャ島に近づく。その日の夕刻「グラーフ・ツェッペリン」はペルナンブコのレシフェの繋留柱に繋留され燃料を補給され、航海中に放出された水素は充填される。フリードリッヒスハーフェンからペルナンブコまで4233マイルの平均所要時間は70時間であった。

乗客のため飛行船は翌朝ペルナンブコの繋留柱を離れ、低出力でブラジル沿岸をバイア・ビトリアを経由して高度650フィートからの素晴らしい眺めを披露した。船上で睡眠をとり翌朝リオに到着して そこで下船となる。フリードリッヒスハーフェンからリオまでの航行距離は5317マイルになる。

帰途の平均所要時間は北東の貿易風を向かい風に受けるのでおよそ10時間長くなった。また飛行船は夜間ローヌ渓谷に戻り、朝フリードリッヒスハーフェンに到着する。そこには飛行船工場から地上員達が出て待ちかまえていた。

ローヌ渓谷を飛行するためにフランス政府によって決められた航行制限と、そこで遭遇する気象条件の問題に対処しなければならなかった。しばしば遭遇したのであるが、渓谷が雷雨で覆われているとき12マイルの制限内で雷雲を回避することは不可能であった。そこで外側に寄った飛行では、バルブから放出されたガスが雷を直接飛行船に誘電するおそれがあるのでそれもまた危険であった。そこで水素と空気の混合は大災害を引き起こすおそれがあった。

その可能性を回避するために、雷雨に遭遇したら圧力高度(気嚢が100%充填された場合の高度)を150フィート越えて上昇し、その後150フィート下げるのである。そうすることによって引火性の水素を雷雲のある空域で排出する危険を回避したのである。

ときには650フィートか、ほぼ飛行船の長さである1000フィートくらい近くで飛行船の両側や前方で稲妻が光ると、眩しい閃光によって正確な位置を把握することは殆ど不可能であった。このような環境条件では操縦室にいるそれぞれの担当は閃光を感じた位置を当直士官に叫び、当直士官は閃光の見えた場所を即座に判断して直ちに飛行船を反対方向に転舵するのである。渓谷を抜けるルートは雷雨と12マイルの制限幅でジグザグになることもあった。大型飛行船の旋回半径がほぼ1マイルもあったため、操舵は非常に困難であった。航路が殆ど雷雨で遮られ「グラーフ・ツェッペリン」は最も大きい稲妻を避け、ジグザグに前後に航行し、しばしば同じ軌跡を辿ることもあった。

後になると、それほどひどくない雷雨圏では頻繁に高度を下げて雷雨の下を航行したものである。飛行船に落雷したと思ったこともあったが、素人には不思議だと思えるかもしれないが水素ガスがバルブ操作されていないとき、飛行船の張り合わせられた金属構造はファラデーの籠として作用するので特に危険はないのである。荒天下で高度を下げる理由は、表面に当たる上下方向の突風が水平方向になり、その方が上下方向の場合より扱いやすいためである。ドイツ人達がその巨大な飛行船を非常にうまく操船したので、それが間違っていなかったと認められたのである。

「麗しく青い地中海」はいつでもそうであるとは限らず、この海でひどい悪天候に遭遇することもあった。乗客にとっては、それはむしろ広大な大地を見下ろすより面白かった。ある飛行では南東に向かってジブラルタルを目指して進んでいるとき水上で竜巻が起きて、水の噴き上げが2つ、間近で起こり2つとも海面とつながっているのが見えた。飛行船は、針路をその水の噴き上げているところから北西にとり、それほど大荒れにならずに済んだ。

「グラーフ・ツェッペリン」の通常の巡航速度は毎時72マイルであった。ある飛行でペルナンブコに向かっているとき、ガータ岬沖の地中海で強い向かい風の驟雨に遭った。20分間にわたり毎時67マイルの向かい風を受け、飛行船は事実上前進出来なかった。飛行船に20年以上乗ってきた古参の乗組員は、それまでこんな暴風に遭ったことは3、4回もないと言っていた。

追い風もまた同様に強く吹くことがある。1934年12月に「グラーフ・ツェッペリン」がペルナンブコからの帰途、セヴィリアに寄港したことがある。再び地中海に向かったとき、北西の毎時45~56マイルの追い風に遇い、そのため飛行船の対地速度は106ノットにも達した。このシェラネバダから吹き下ろす風は極端に強い突風であった。このような状態で44度の傾斜を経験したことがある(記録に残っている「グラーフ・ツェッペリン」の最大傾斜は49度で、これは一度きりである)。強い空気動力学的な突風の荷重によって、この状況下では舵角は10度に限定された。

このような天候でジブラルタル海峡の海は非常に荒れていた。東航している貨物船に青波が船尾から打ち込み、デッキを走って船首に流れ落ちた。あたかも船首から航跡を曳いているように見えた。ところが船首と船尾を海面上高く反らせたスペインの漁船はちょうどこの海象にあわせて設計したように、我々の眼下に見えるこの漁船は海を乗り切っているように見え、海水の打ち込みは見られなかった。

アフリカ海岸に沿っての航行では、その時点で他の方法では見ることの出来なかった僻地の眺めを見る機会があった。船は海岸近くまで航行することは出来ず、飛行機はまだこの地域を飛んでいなかったし、道路もなかった。我々の巡航高度から多くの、10隻を優に超える船舶が座礁して錆びて朽船になっているのを見かけた。船乗り達に何が起きたのか、もし上陸出来たとしても生き延びられたか考え込まざるを得なかった。

第6章: 「グラーフ・ツェッペリン」の南米飛行(1)へ

第6章: 「グラーフ・ツェッペリン」の南米飛行(3)へ

トップページに戻る