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大型旅客用飛行船の黄金時代(15)

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Harold G.Dick with D.H.Robinson著 "Graf Zepperin & Hindenburg"

「グラーフ・ツェッペリン」と「ヒンデンブルク」
大型旅客用飛行船の黄金時代


第6章: 「グラーフ・ツェッペリン」の南米飛行(1)

1934年6月3日、ジョージ・ルイスとショーティ・ミルズは「グラーフ・ツェッペリン」の南米飛行から帰任した。ジョージと私は交互に「グラーフ・ツェッペリン」に乗ることになっていたので6月9日に出発する予定の、その年の第2回飛行は私が乗る番であった。

その頃「グラーフ・ツェッペリン」の大西洋横断旅客飛行については、毎回決まった手順が出来上がっていた。出発日に乗客が揃うとクアガルテンホテルで夕食を摂ることになっていた。夕食が済むとツェッペリン工場の「グラーフ・ツェッペリン」の格納庫へバスで移動し、そこで格納庫から出るまえの飛行船に乗り込んだ。出発は午後8時が予定されていたが、時には郵便物が届くのを待つために遅れることもあり、稀にフランスのローヌ渓谷に発生した霧や雷雨のために出発を遅らせることもあった。

飛行船の出発は、乗客にとっても地上にいる人達にとっても魅力的なものであった。天候に左右されるが2~300人の地上員が、移動用繋留柱に繋がれた飛行船を格納庫から曳きだし、ドッキングレール上のトロリーに前後を繋索する。格納庫と繋留柱から解き放たれた飛行船はトロリーからも離れ、地上員によって保持される。殆ど完全な静寂のなか、飛行船の重量を900~2200ポンド軽くするためにバラスト水を放出して最終ウェイオフが行われる。

『アップシップ!』の号令によって「グラーフ・ツェッペリン」は地上員の手を離れ、静かにおよそ150フィートまで浮揚し、エンジンテレグラフは第1エンジンを呼び出し、次いで第2・第3・第4・第5エンジンにも始動の指示が伝達される。全てのエンジンがアイドリングの状態で300フィートに達するとエンジンテレグラフは全エンジンに回転数を上げるように信号を送る。

飛行船が速度を速め高度を上げて行くにつれて操縦室と乗客区画の灯りがだんだんと暗くなり、微かな爆音を残して夜の空に消えて行く。

離陸はすべて基本的に同じである。静かで統制のとれた、ある種の決まった作業の流れであった。

大きい骨組の船体の浮揚力と搭載重量は充填した水素の量で決まり、高く上昇したときは自動弁によってガスを放出し、飛行船は地上/海上を出来るだけ低く飛ぶ。燃料満載状態の離陸直後はそれが著しい。

従って「グラーフ・ツェッペリン」がフリードリッヒスハーフェンからリオに行く通常のルートは、バーゼルを経てフランスに入りブザンソンを通って飛び、リヨンからローヌ渓谷を下ってマルセイユの西およそ50マイルにあるサンマリーへ行くコースであった。ツェッペリンはフランスの領空を通過しなければならなかったが、フランス国民のゴール人としてのプライドと大戦の記憶が困難な政治的問題を生起し、それがヒットラーのドイツに対する鋭い過剰反応になった。フランス人の一部には、飛行船がスパイ活動に加担し、秘密の写真撮影をしているという疑念が拭えなかった。1929年3月に「グラーフ・ツェッペリン」は東部地中海をめぐるクルーズを行った。大企業シュナイダー・クルソ兵器工場の役員は、そのとき「グラーフ・ツェッペリン」がその工場の上空650フィートをゆっくり飛んで、そのあと通常の速度で高度2300フィートで横切り、調査の結果写真撮影用の機材が見つかったと申し立てた。

1934年に「グラーフ・ツェッペリン」は、両側を飛行船の航行する高度よりかなり高い標高の山に挟まれた、幅12マイルの専用航路を飛ぶように制限がかけられた。航路の両側の家は警戒するように指示され、パリの電話番号(おそらく航空大臣であろう)が伝えられ、飛行船が上空を通過するときに連絡するよう申し渡された。

「グラーフ・ツェッペリン」がその航路を逸れることは決してなかった。もしそうすればドイツは南米に行く途中、フランスの上空を飛ぶという絶対不可欠な特権を取りあげられる可能性があったからである。

第5章: クヌート・エッケナーとその父

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