LZ126を合衆国に引き渡した後、我々はフリードリッヒスハーフェンでの仕事をまた終えたのであるが、今後も建造するという強い決意を抱いていた。
戦勝国はまだ我々に大型飛行船の建造も認可することができなかった。そのためには多大な財政的手段が必要であったが、あいにくそれは不足していた。
そこでエッケナー博士は、ツェッペリン・エッケナー義捐金で資金を調達することを提唱した。それに加えて、海員組合、飛行船組合、飛行士組合、切手蒐集家など様々な団体が我々を非常に強力に支援してくれた。
乗組員の中からいろいろな人達が国内各地に出向いて、これまでの飛行船、将来の飛行船航行について講演を行った。また、それで相当な額の収入を獲得することが出来た。
最終的には飛行船建造と管理運営のためだけでかなりの額になり、エッケナー博士がさらに大型の飛行船を建造することを、政府は全会一致で承認した。
建造番号LZ127は、1928年7月8日、フェルディナンド・ツェッペリン伯爵の生誕90周年記念日に、その娘であるヘラによってグラーフ・ツェッペリンと命名された。
すでにその1年前にデューア博士はフリードリッヒスハーフェンの工場に私を呼び寄せていた。そこでは組立が始まっており、いくつかのリングが完成していた。
ふたたび、私はガス嚢の装備と格納庫の外での船体の外被張りを担当することになった。
LZ127は、現有の格納庫の寸法を最大限に活用した、可能な限り大型のものになった。まだ、不充分な点が沢山あり、空力的に最適なものを作ることができなかったため、それよりずっと延長された。しかし、これによってとりわけ優雅な外観となった。
長さは237m、最大直径は30.5m、ガス容量は10万5千立方mであった。
従って、その当時建造された飛行船のなかで最大であった。
この飛行船でなら、何かができそうであった。
それは旅客船として、しかしまた試作船として計画されていた。
個室キャビンがあり、20人用のラウンジ兼ダイニングがあった。
完成後、1928年9月18日に最初の社内試験飛行を行い、それから、ドイツおよび北海上空で素晴らしい旅客飛行を行った。
処女飛行から3週間後の1928年10月11日に、我々はアメリカに向けて飛び立った。グラーフ・ツェッペリンによる最初のアメリカ飛行であった。
我々はフランスを横切って、スペイン東海岸に沿ってジブラルタルを越え、大西洋に出た。
我々はアゾレス諸島を通過し、大洋の中央に出て、そこで悪天候領域に踏み込んだ。
私はちょうど当直を申し渡したところであった。昇降舵を任されたのは、乗り組んでまだ日の浅い、訓練中の若い技師であった。そのため彼はまだ充分な経験を積んでいなかった。何事もそうであるように充分な経験が必要なのである。私が当直を申し渡したすでにそのとき、西から近づく巨大な厚い雲の層が行く手に見えた。我々はそれを通過しなければならなくなった。
エッケナー博士と我々全員には、そこに何が潜んでいるのか明らかであった。
着替えてひげを剃ろうと後部の居住区に入るやいなや、飛行船がこの巨大な雲のなかに突入した。それはローラーのようにぐるぐる回った。
船首が突然上向きに持ち上がり、飛行船が揺り上げられ、数秒後に下向きに大きく傾斜した。「ザムトさん、指令ゴンドラにお越し下さい。」と誰かが私を呼んだとき、私は「これはとんでもないことになった。」と思った。
前部に行くと、とどろき渡る雲の中に飛行船がいることが判った。
エッケナー博士の指示で私は昇降舵を引き継ぎ、その荒れ模様の雲塊のなかで飛行船を操縦した。そのとき私は飛行船を可能な限り水平に保とうと、つまり 乱気流によって傾こうとする飛行船を平衡状態にしようと試みた。
こうして何とかやり過ごし、左舷水平安定板の外被が破れその断片が垂れているとの報告を飛行主任のグレッチンガーから受けたときには、もう明るくなっていた。
私は被害調査に行くために昇降舵の担当を交替した。
結局、私は工場で行われる外被の担当も引き受けた。
こうして私が船尾に行くと、そこには博士の子息クヌート・エッケナー、ボイエルレ、ラドヴィックがすでに駆けつけていた。そこで我々は突発事故の状況を目にした。実際、安定板の下面外被の3分の2が引きちぎれていた。長さ10~15mで、幅広くちぎれた外被が昇降舵に掛かってばたついており、その機能を損なっていた。
さあ、どうしよう? 何よりもまず、それで昇降舵がまた正常に作動するよう、破れた外被を切り取らなくてはならなかった。言うのは簡単だけれど、誰がそこまでよじ登るのだ? 誰もやるとは言わなかった。
私はつなぎの作業服とデッキシューズを身につけ、ガス嚢主任のクノールが渡してくれた滑車装置を口にくわえて、昇降舵を固定している桁の下に這っていった。
私のずっと下には海がうねりを上げており、私はナマケモノさながらに、桁の留め金につながれてマストにぶら下がっていた。
いつ落ちても不思議はなかった。 そうなっていたら、私は一巻の終わりであっただろう。
私は1m毎に外側に這って出て、1m毎に外被を取り去り、それが後ろに飛んで海へと落ちた。これを10mにわたって実施し、ぼろぼろに引き裂かれた外被は完全に切断されて昇降舵は自由になった。
我々5人は、そこに残っている裂け目に接着テープをあてがい、縁を鳩目でこそぎ取り、速乾性のツェロングルテンで接着した。[越家註:ツェロンは化繊]
2~3分後に接着箇所は乾燥し、我々はまだ残っている外被を綱で桁に縛り付けた。
こうして、5時間の作業で外被の前部3分の1を確保することが出来た。
エッケナー博士は報告を受けたあと、当然なことであるが、直ぐに危険な状態と判断し、速度を秒速3~4m減じて、時速およそ100kmとした。
彼はさらに、用心のためにアメリカ海軍に無線で高速艇の派遣を依頼した。
その船は、もし我々が着水しなければならなくなったとしたら、乗客と 場合によっては乗組員をも収容することが出来るはずであった。
損傷した飛行船では、これ以上問題が生じないという保障はなかったからである。
しかし幸運にも、損傷した飛行船で航行を続行できることが間もなく判った。
夜のあいだに我々はバーミューダの北を通過した。
標識灯がずっと長い間見えていた。
強い西風を前方から受けていたので、我々はそこをゆっくりとしか航行出来なかったのである。
しかし、我々は前進していた。
エッケナー博士は救助艇の派遣依頼を取り消した。
損傷した尾翼を見張っておくために、クヌート・エッケナーは船尾の渡り板の端で夜通し過ごした。氷のように冷たい向かい風から身を守るために、彼は寝袋を身体に巻いていた。
私は非常に疲れていたので乗務員室で眠った。
3時頃、クヌート・エッケナーが私を起こし、安定板の上の外被が危険にさらされていると言った。我々はふたたび船尾に上り、張っていたロープで表面を固定した。
朝、我々は合衆国海岸、ワシントンの南にある有名なハッテラス岬に到達した。
この岬は、そこでたびたびハリケーンが暴れることで悪名高いところである。
実際に、そうした低気圧に我々は またもや捉まってしまった。
エッケナー博士の強い要請があり、私はまた昇降舵を握った。そして、この悪天候領域のなかでもイーブンキール[越家註:船体を水平に保持すること]を保とうと慎重に操縦し、飛行船の傾斜が生じないようにした。
そのとき、100m高いか低いかということは大した問題ではなかった。それはどうでも良いことであり、重要なのは飛行船を水平に保つことであった。
こうして、飛行船はおよそ3時間かけて、この領域を通り抜けた。
我々がニューヨークに姿を現したとき、摩天楼と汽船のすべてのサイレンが轟いた。
航行は完遂されたのである。
この歓声を挙げている街をひとまわりしたあとレークハーストに向かい、そこに順調に着陸した。
我々は熱狂的な歓迎を受けた。損傷した飛行船で無事に航行を終えたことを皆で喜んだ。
ふたたび、随員付きで、ブロードウェイに沿って行進し、市役所でも華々しく歓迎された。
その間にレークハーストでは外被の修理が行われた。
そこには、1924年に飛行船製造社からグッドイヤー社に移った技術者のほか、海軍飛行船基地に配備された人々がいた。彼らは飛行船の外被の製作や修理に熟達していた。
つまり、外被は申し分なく修復され、我々は何も気にすることもなく数日後に復航につくことが出来、また問題なく母港フリードリッヒスハーフェンに到着することが出来た。
主任技師のエーリーは、ハッテラス岬から暴風前線に突き進んだときの、私の操舵幅、それに対する飛行船の作動と応答を詳しく説明するよう私に依頼した。
彼が私に伝えたところによると、彼はそのあとで風洞を使ってLZ127の模型で実験を行い、その結果が私の説明と合致したということであった。