LZ127Profile

ツェッペリンに捧げた我が生涯

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Das erfolgreichste Luftschiff: LZ 127 GRAF ZEPPELIN

傑作飛行船「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」(2)


1928年に、もう一つの飛行をベルリンで行った。
1928年12月と1929年の1月、飛行船は格納庫に入っていた。

1929年の飛行は、飛行船が広く世に知られることになるはずであった。
ドイツ、スイス、オーストリア、オランダの多くの素晴らしい飛行と共に、最初の地中海飛行であるオリエント飛行(1929年3月25~28日)は私にとって思い出深い。
我々はその飛行で、中間着陸を除いて往復でちょうど8000km、時間にして81時間半の飛行をした。
飛行船は リヨン、マルセイユ、コルシカ島、ローマ、ナポリ、クレタ、キプロスを経由してエルサレムまで行った。
上空から眺める聖都の光景は、おそらく地中海上空を往く悠々たる旅の、すべての壮大な眺めの中でも最も印象的なものであった。
そこからヨルダン渓谷に入り、そこで有名な死海へ出た。
周知のように、死海は海面よりずっと低い平地に広がっていた。
この日の夕刻は何の危険もなく、非常に低く飛行することが出来たので、エッケナー博士は「いまから、飛行船が水面下で飛べるかどうか試してみよう。」と言った。
それから、我々は次第に高度を下げていった。
海抜100m、50m、10m、ゼロ・・。
何か特別なことが起こるかも知れないと期待していた人達もいたようであるが、当然ながら何も起きなかった。
海面下 50m、100m、150m、160mとさらに降下した。
そこで夕闇が広がったので、我々は観測弾を投下した(これは海上で偏流の測定に使用する)。
短時間、炎を上げ燃え上がって水面に輝き、およそ200m下の銀白色の塩水が見えた。
こうして我々は海面下 160mを飛行船で航行した - そして何事も起きなかった。
乗船客には「刺激的な」事件であった。

それからクレタとアテネを経由し、ふたたび母港に帰った。
最初、我々はコンスタンチノープルを通る経路をとりたがったが、黒海上空がひどい悪天候であったので、エッケナー博士はアテネからコリント運河、ギリシャの西側を航行することを決断した。
このルートで、イタカ島とコルフを通ってダルマチア海岸をたどり、スプリトでディナリッシェンアルプを横断してプラッテンゼーに出た。
そこから終わりまで、壮大な遊覧飛行を実施して、美しいドナウの中心都市ウィーンまで行った。

ここで私は、この旅行でエジプトに立ち寄らなかったのは、カイロでの着陸許可が出なかったという理由からのみであることをつけ加えておきたい。
エジプトの地に最初に着陸するべきであったのは、そのとき建造中であったイギリスの飛行船R101で、そのために取っておくためであった。
我々は2年後の1931年4月に、その訪問とまったく似たような飛行をして、このとき寄港できなかったことを挽回している。
そのときは14ヵ国、9000kmを飛行した。
その飛行で コルシカ、サルディニア、シチリア、マルタ、その後 ベンガジからアレキサンドリアまで北アフリカの沿岸を航行した。
出発から33時間後に我々はエジプトの首都上空にいた。
ピラミッドとナイルに立ち寄って、早朝カイロのヘルアンに着陸した。
そこで我々は、さらに旅客を乗せて、そこから30人の乗客とエルサレムまで周遊飛行した。しかし、そのためには乗組員の3分の1を下船させる必要があった。
飛行船乗りは、ピラミッドまでラクダでキャラバンして時間をつぶした。
その日の夕刻、またカイロに着陸して、「過剰の」乗客を降ろし、下船していた乗組員を収容して、アドリア海をバルカン沿岸にそってウィーン経由帰投した。

壮大な長駆 5400kmにわたる3日間の、イベリア半島を一周する地中海旅客飛行は言及に値するものであった。
帰途、リビエラからローヌ、リヨン、バーゼルを通った。
そこでは冷たい北風「ミストラル」が、その後何度もローヌ渓谷の航行に困難をもたらした。一度は、そのためにすんでのところで擱座しかけたのである!
そのときのことについて、記しておこう。

1928/29年にマイバッハエンジンとプロペラを連結する動力伝達方式の変更が行われ、テストベッドでは良好な状態を維持しており、1929年春の飛行でもクレームは出ていなかった - 地中海飛行のほかには。
このとき、プロペラ軸に亀裂が生じるという事態が持ち上がった。
プロペラは飛行中に取り外され、欠陥のある推進軸が交換されたあと再組立されたが、このことは乗客には知らされていなかったのである!

5月16日、グラーフ・ツェッペリンは2度目の北米飛行に旅立った。
今度もリヨン南西のバーゼル上空を飛んで、ローヌ渓谷へと下った。
そこではとても強いミストラルが吹き、北風が荒れていた。その風はとてもはやい速度で飛行船をローヌデルタへと運んだ。
それからまもなくローヌ河口とバルセロナの中間で1基のエンジンのクランク軸が折れて故障した。

このような飛行船の最初の大飛行で常に指揮を取ってきたエッケナー博士が私に言った。「ザムト君、第2エンジンが故障したとき、回転させ給え!確認をとる必要はない。」
壊れたエンジンを船上で手当をして修復することは実現不可能であると思われた。

我々が昨夜、概ねアリカンテの上空にいたとき、本当に第2エンジンが動かなくなった。
直ぐに母港に向かって逆コースが取られた。訪米飛行の継続に責任を負うことは不可能となった。我々はローヌ河口までは比較的順調に来たが - しかし、そこで氷のように冷たいミストラルが並外れて強く向かい風に吹いてきた。
5基のエンジンではなく3基を使って激しい向かい風に立ち向かわねばならず、アビニヨン、モンテリマールからバランスにかけてはうまく行った。
しかし、ドローム河口で第3エンジンが停止してしまった。
5基のうち、たった2基のみしか作動しておらず、状態は良くなかった。
ローヌ川の曲がりに沿ってジュネーブ湖に到達するために北向きのコースに操舵するまで、我々は2基のエンジンが持ちこたえ、バランスまでたどり着けることを願った。しかし、無駄であった。その後すぐに第4エンジンが止まったのである。

最後に残った第5エンジンで、しばらく北風に向かって航行していたが、もはや全く前進することが出来なくなり、ときどき押し戻されたりローヌ渓谷のバランスとモンテリマールのあいだで数時間立ち往生したりした。だが我々はなおも、風が弱まりジュネーブへのコースを取るために完全に屈曲部まで到達出来る希望を維持していた。

だが、残念なことにそれは叶わなかった。我々はどうしても決心せざるを得なかった。
エッケナー博士は、フランス政府に無線で我々の状況を知らせていた。
我々は電報を投下した。自動車の運転手がそれを取りあげ、望むらくは - 最寄りの郵便局へ持って行くことを期待したのである。

我々はドローム渓谷の方へ航行し、山間にミストラルからの風除けを見つけるために渓谷を東に向かって航行しようと試みた。
不時着し、エンジンを修理し、あるいは風の弱まるのを待つことも提案された。
しかし間もなく、渓谷が次第に狭くなり危険が増してきたことが判明した。もし最後に残ったエンジンが停止すれば我々は山岳の方に押し流され、その上 飛行船の方向を変えることはますます難しくなるに違いなかった。

そのとき、フランス政府から「パリと、ツーロン近くのクール・ピエールフーにある格納庫を自由に使用して良い。」という無線通信を受信した。

幾つかの幸運に恵まれて、またローヌ渓谷をツーロンに向けて飛行することが出来た。
順風での2時間の飛行ののち、クール・ピエールフー空港に到着した。
そこはフランス海軍飛行船の主要拠点で、熟練の人達がいた。
フランス海軍は、30年代まで性能の良い軟式およびキール(越家註:半硬式)飛行船を保有しており、終戦後にはドイツから2隻の海軍飛行船とノルトシュテルンを受領していた。
クール・ピエールフーには飛行船の扱いにとても慣れた地上支援員たちが居たのである。

エッケナー博士の指示で、私は第3エンジンの故障から、昇降舵を着陸まで引き継いだ。
我々はもはや飛行船をウェイオフする時間、つまり静的な平衡を保つ時間も取れなかった。そして、唯一のエンジンでは方向転換することも出来なかった。
それで動的に飛行を着陸させた。

私は地上約60mになるまで下向きに操舵し、繋留索を放出した - それをフランス人がうまく掴まえ飛行船を曳引した。
我々は最後まで、格納庫がグラーフ・ツェッペリンにとって充分な高さがあるかどうか自信があったわけではないが、庫内に引き込まれることに成功した。
飛行船はウェイトを掛けて繋留され、乗客は下船することが出来た - 我々はまたもや救われたのである。

フランスの将校による歓迎は素晴らしいものであった。自分たちの硬式飛行船がすべて喪失あるいは廃船になった後、再び大型飛行船が格納庫に入庫したことを彼らは喜んだ。
我々はとてもよく面倒を見て貰った。エンジンは取り外された。
4基の新しいエンジンが特別仕立ての列車でフリードリッヒスハーフェンから到着し、それを我々が取り付けるのに、当然のことながら4~5日を要した。
乗客は、鉄道で希望する先に送られた。
何人かは我々とともに留まった。彼らと乗組員は周囲を見て回った。
それから、我々は飛行船 DIXUDE(我々のLZ114、別名L72)の記念碑を訪ね、59名の犠牲者に花輪を捧げた。
5月23日に、我々は41名の乗組員と、最初に乗船した18名の乗客のうちの5名と、11名のフランス海軍将校を乗客としてフリードリッヒスハーフェンに向けて帰航に出発した。
フリードリッヒスハーフェンで検査の結果、エンジン・プロペラ間のカップリングが連続運転による捩り振動のために変形し、クランク状に破損していることが判明した。
改良は(詳細な調査研究により)軽度なもので済んだ。
最初の試験飛行は2ヶ月後に開始され、8月1日に我々はレークハーストに向けて次の訪米飛行に飛び立ち、そこから有名な世界一周飛行が開始された。
特筆すべきは、このローヌ渓谷の冒険的な体験によってツェッペリン飛行船での飛行の威信が損なわれなかったことである。 - それとは正反対に、原動力の5分の1の力でミストラルに耐えたことに人々は驚嘆したのであった。

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