LZ127Profile

ツェッペリンに捧げた我が生涯

ManzellHallen

So fing es an

こうして始まった


この録音テープにツェッペリン飛行船時代の思い出を記録しておくことにしようと思う。私、アルバート・ザムトは1912年に、若者としてツェッペリン飛行船、つまりドイツ飛行船運航株式会社に入社した。それは世界で初めての航空運輸会社であった。

最後に私はドイツ最後のツェッペリン飛行船「LZ130:グラーフ・ツェッペリンⅡ」の指令になったが、その飛行船は「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」と同じように、第二次世界大戦の端緒でドイツ帝国航空大臣ヘルマン・ゲーリングの命令によってフランクフルトの飛行船格納庫で解体されてしまった。

今日、私がツェッペリン飛行船時代を話そうとするときに、どこから始めたら良いのか、どこで止めればいいのか判らない。40年間の飛行船の運航は長い期間であり、それを短くまとめるのは容易なことではなく、省略されてしまうのは残念である。だが、ツェッペリンの歴史の中から何かを語ろうとする前に、まずはツェッペリン飛行船運航の起源を述べることが重要であると思われる。そして、その中でまず第一に言及されるべき人物は、この会社の名前にもなった人物、フェルディナンド・ツェッペリン伯爵である。

彼は1838年7月8日に、今はコンスタンツのインゼルホテルになっている館で生まれたが、そこでは母方の祖父母が木綿工場を営んでいた。彼は幸福な幼年期をギルスベルク農場で過ごした。彼の母が早く亡くなったので(彼が14歳のときであった)、シュトットガルトの実業学校に行った。その後、彼はルードヴィヒスブルクの士官学校に入り、将校になった。

1857年、フェルディナンド・フォン・ツェッペリンが19歳の時に、シュトットガルトで騎兵少尉に任官した。彼は1863年に志願して、アメリカの独立戦争に観戦武官として参加した。そこで彼は初めて気球による浮揚を経験した。

1870/71年の普仏戦争では、開戦初日に行われた勇敢な偵察騎行でツェッペリンの名声が上がった。彼はその後、包囲されたパリ要塞から揚げられた自由気球に便りや伝書鳩を放つ様子を知った。その気球は追跡され、その幾つかはドイツ軍によって撃ち落とされたり、海上へと流されたりした。彼は言ったそうである。「なんということだろう! あれが操縦可能であったら、思うところに飛べるのに!」と。ツェッペリン伯爵にとって、これが飛行船について熟考する最初のきっかけとなった。

実際に彼は特許庁に行き、前後に並べた複数の胴体による操縦可能な航空機の特許を提出し、1895年に受理されている。そのときに彼は、動力装置を備えた飛行船と、人を乗せるための飛行船をそれに連結させることを考案した。しかし、考案したその船は一度も実証されることなく、このアイデアはまもなく沙汰止みとなった。彼は、航空機を連結させることが実現不可能ではないかという見解に至った。それで、動力用の原動機や備品をそなえた飛行船を作ることが必要になった。ツェッペリン伯爵の試算の結果、巨大な飛行船が考案され、彼はそれを建造した。

第一歩は、ボーデン湖畔のマンツェルに水上格納庫を建設することであった。長さ128mの軽量の飛行船はすぐ壊れるものではないけれども、風や嵐には傷つきやすいと彼は考えていたからである。そのため、飛行船は常に風に逆らって格納庫から出し入れされなければならなかった。こうした理由から、彼はその先端を錨で固定して常に風の中で回るようにした水上格納庫を設計した。

1900年に最初の試作船が完成した。7月2日に、彼はその飛行船で最初の飛翔をした。飛行船は、錨泊したポンツーン上の格納庫から汽船により筏の上に曳き出されてスタートした。その後、外で繋留索が放たれて筏から離れた。初めて空中に浮かび、およそ20分間空中に漂ったその飛行船は、2基のエンジンがあまりにも非力であったため(合わせて28馬力しか出せなかった)、すぐに漂流した。ツェッペリン伯爵は、その馬力ではそれほど強くない風に対しても操舵することが出来なかった。それで彼は飛行船を再び水面に降ろし、格納庫に収容した。

ツェッペリン伯爵は、飛行船は操縦可能ではあるが、それで多くのことが出来るわけではないことを理解した。彼はもっと強力なエンジンを備えた飛行船を建造しなければならなかった。しかし、そのためには財政的資金が不足していた。のみならず、そのために彼は自らが設立した「飛行船航行を行うための株式会社」を解散しなければならなかった。投入された彼の個人的資産はすべて、それと共に潰えてしまった。

その差し迫った困窮のなかで、ヴッテンベルク王は彼に富くじの実施を認可し、その収益は12万5千マルクにのぼったので、それを飛行船建造に使うことが出来た。さらに、幸運にもアルミニューム産業商業顧問官カール・ベルクが、無償でアルミニューム型材を納品、提供してくれた。カール・ベルクは、飛行船事業の開発に、彼の製造する金属の新分野開発の可能性を見出したのである。

こうして、1905年に2隻目の飛行船が建造されることになった。その間に、エンジンはさらに改良され、より高い性能を発揮するようになっていた。最初の飛行船に装備された2基のエンジンはそれぞれ僅か14馬力であったが、2隻目の飛行船に搭載された2基のエンジンは1基あたり85馬力になっており、LZ2の速度は毎時40kmに達した。

しかし、この飛行船が初めて格納庫から出された際にひどく損傷を受けたため、最初の飛行は1906年1月17日に実施された。嵐のような風が吹き、1基のエンジンが正常に作動せず、飛行船はアルゴイのキスレグまで流されてしまった。そこでツェッペリン伯爵は何とか無事に着陸することは出来たが、飛行船はその翌晩とても強い突風によって損傷し、解体しなければならなくなった。この暗転のあと、ツェッペリン伯爵は殆ど諦めかけていた。

しかし、原則的には強い風でも飛行船は操縦できること、そして訓練された乗組員がいなくても地表にうまく着陸できることを彼は確認したのである。今回はプロイセンでも行われた富くじと政府の財政的支援、さらにエンジンなど未だ使用に耐えるLZ2の部品を利用することで、3隻目の飛行船の建造が可能となった。こうして、苦労と困窮のなかでLZ3が完成した。

この飛行船は1906年と1907年に8時間連続飛行を含む試験飛行を成功させ、これによりツェッペリン飛行船の有用性がようやく立証された。
注目すべきはツェッペリン伯爵が1907年9月26日に、当時28歳であった娘のヘラをLZ3に乗せて非常に素晴らしい飛行をしたことである。
父親や家族にとって苦しい時期に、彼女は勇敢にも父親の側に立ち、彼の多くの私信の処理をも積極的に手伝った。

重要な友人であり後援者でもあった国王ヴィルヘルム1世も、同じ年の10月2日に夫人とともにボーデン湖上空におけるすばらしい飛行に参加し、これが全世界に飛行船の信頼性を実証した。

懐疑的であったプロイセンの軍人さえもこれに納得し、ドイツ政府はさらに大型の飛行船LZ4への資金を提供すると表明した。しかし、その検収の条件として24時間飛行が課された。この飛行船による試験飛行は見事に成功した。第1回は、国外すなわちスイスへの飛行が行われた。チューリヒからルツェルンへの、この12時間飛行には12人が乗船した。いよいよ24時間飛行が実施されることになった。

ツェッペリン伯爵は1908年8月4日にその飛行を開始した。フリードリッヒスハーフェンを離陸して、ライン川のシャフハウゼンを越え、バーゼル、シュトラスブルク、マンハイムからマインツまで飛んだ。そこで引き返した。最高齢層の市民は、それが如何に並外れた出来事であったか今でもよく覚えている。シュトラスブルクなど至るところで、飛行船が飛来すると鐘が鳴り響き、祝砲が打ち上げられ、誰もが参加して飛行船がマインツに来たときは全ドイツが興奮の渦に包まれた。

マインツに到着する少し前、残念なことに1基のエンジンが動かなくなり、ツェッペリン伯爵はライン河畔のオッペンハイム近くで不時着せざるを得なかった。この不時着はうまく行き -今日、まだそこに記念碑が立っている- エンジンは幸運にも短時間で修理できたので、飛行船は再び離陸することが出来た。

そこで向きを変えて基地のあるフリードリッヒスハーフェンに向かうコースをとった。しかしその直後、修理したエンジンがまた故障して止まったため、ダイムラーの工場近くの広場に着陸して、そこでエンジンを整備することにした。ツェッペリン伯爵は、シュトットガルトを通過してまもなく、フィルダー台地のエヒターディンゲンに来た。そこでうまく着陸し、飛行船を繋留した。

ルートヴィヒ・デューアとカール・シュタールは、当時すでに技師として伯爵のもとで働いており、この飛行に居あわせ、後にそのときの様子を大変生々しく私に語ってくれた。

ルートヴィヒ・デューア:「我々はライン沿いのオッペンハイムのそばに、故障したエンジンを修理するために着陸しました。その日はとても暑かったので、飛行船はもはや持ちこたえられませんでした。そのため、我々は取り外せるものは取り外していました。とそこへ一人の男が、籠に入れたワインと美しいレーマー(大きめのワイングラス)を何本か持って我々のところにやって来ました。ツェッペリン伯爵はその男に尋ねました:『なぜ、美しいレーマーを持ってこられたのですか?』。それに対して、男は答えました:『良いワインは良いグラスで飲まなくてはなりません。』」

カール・シュタール:「最初我々は相当に高いところまで来てしまいました。前部エンジンがうまく作動しなかったからです。エンジンが完全に故障したあと、ツェッペリン伯爵はエヒターディンゲンで着陸し、エンジンをダイムラーで修理させる決定を下しました。そして、それが実行に移されました。私自身はというと、エヒターディンゲンで着陸したあと、3時まで休憩するためにダイムラーの車でエッシンゲンの自宅へ送られましたが、その頃私は飛行船を見張っていたデューアと交代することになっていました。」

デューア博士:「私は飛行船のそばに留まっていました。我々は作業車を停車させて、飛行船の先端を作業車の柄に繋ぎました。そこでは自由に揺り動かすことが出来ました。一度、西から黄色い雲の壁が立ち上がりました。その直後、雷鳴を伴う土砂降りの突風が飛行船を捉え、飛行船は風の中で回転することが出来なくなりました。飛行船は作業車を吊り上げたまま高く上がり、1km先で落下して燃え上がりました。」

カール・シュタール:「仕上げ工のラブルダとシュヴァルツが飛行船に乗っており、飛行船とともに持ち上げられました。その後、飛行船は立木に吹き寄せられて外被や張線を引き裂かれ、火花が発生して飛行船は燃え上がりました。そのときに怪我をしたが、生命にかかわるような怪我ではありませんでした。それは3時、つまり私がデューアと交代することになっていたときでした。」

デューア博士:「まったくそれは私にとっても皆にとっても大惨事でした。」

事故現場に駆けつけたツェッペリン伯爵は、そこで再び瓦礫の山を目にすることになったのである。

しかしこの不幸はすべての終わりではなく、ツェッペリン伯爵の構想を決定的に打開させるきっかけとなった。全ドイツ国民が支援して、翌朝フリードリッヒスハーフェンに帰ってきたときには、既に予想外の高額な寄付がそこら中から集まっていた。これが、よく知られている6百万マルクの寄付であった。

ドイツ国民が寄せた6百万以上の金マルクで、ツェッペリン伯爵は事業を継続することが出来た。それによって当然、伯爵は何かを試みることが出来た。いまや彼には資金があり、自分自身が正しいと思うやり方で飛行船を建造することが出来た。

彼はツェッペリン飛行船製造有限会社を設立した。浮き格納庫をやめて陸地に移し -その現在ツェッペリン金属工業有限会社フリードリッヒスハーフェン工場が建っている土地に、固定式格納庫が建設された。

まず最初に、既に1906年に完成していたLZ3飛行船を、ガスセル1個分延長し、性能向上させたエンジンを装備した。1908年10月21日に水素ガスを充填し、10月23日に改造後初めて空中に浮揚させた。それから、引き続き試験飛行およびデモンストレーション飛行を行い、その飛行にはときおり皇子や皇女、それに公爵を乗せることもあった。

1908年11月7日には、ハッカー船長によって航行による不滅の功績が確立された。飛行船は11月の濃い霧の中、ドナウシンゲンで挙行された皇帝の閲兵式に時間通りに参列したのである。船上に居たのは皇帝の子息であるプロイセンのウィルヘルム皇太子であった。

皇帝は -最初はツェッペリン伯爵の行動を非常に冷ややかに見守っていたが- 大きな感銘を受け、3日後に自身でマンツェルに出向き、ツェッペリン伯爵に工場を案内させたほどであった。

さらには、自己責任で建造された飛行船が陸軍飛行船ZⅠとして帝国に引き取られることになったのである。

ツェッペリン伯爵はその移送飛行の前、1909年4月1日に摂政のルイトポルト皇太子をその飛行船に乗せるためにバイエルンに飛んだ。強い向かい風にもかかわらず、飛行船は5時間の飛行のあと、正確にオーバーヴィーゼンフェルトに現れた。

ミュンヒェン上空を周遊飛行したあと、着陸操作の間に風が強くなり、飛行船は漂流して出発から11時間後、ニーダーヴィーバッハに不時着を余儀なくされた。翌朝11時半に改めて出発し、13時40分にZⅠは摂政皇子と多数の観衆の待つオーバーヴィーゼンフェルトに非常にうまく着陸した。

3月8日から5月9日までの試験飛行のあとで、ZⅠは1430mの高度記録と、25人を乗せた載荷飛行を行い、最終的に陸軍の乗組員の手で、差し当たりフレードリッヒスハーフェンのリードパークの天幕格納庫に収容された。1909年6月29日に、シュペーリング少佐とその部下がメッツに輸送し、そこで1913年3月まで陸軍練習船として従事し、その後技術的に時代遅れになったので解体された。

その間に、エヒターディンゲンで炎上したLZ4と同じ寸法の新造飛行船(LZ5)が製作され、ZⅡとして同じように陸軍に引き渡されることになった。その前にツェッペリン伯爵は -もし可能であればベルリンまで- 36時間連続飛行を行い、その飛行船の性能を実証しようと思った。

1909年5月29日にLZ5はフリードリッヒスハーフェンを出発し、ウルム、アウグスブルク、ニュルンベルク、ホフ、ツァイツを経てビターフェルトまで飛行した。そこで燃料がギリギリになったので伯爵は引き返そうと決心したが、彼はそうしなかった。彼にとって最強のライバルであるパーセヴァル少佐の格納庫の上を飛ばなかったのである。

帰りの飛行はシュトットガルトの近くで漆黒の夜、実施された。ゲッピンゲン近くのフィルスタルで強い向かい風に遭った。その上、乗務員も伯爵も疲労困憊しており、彼はゲッピンゲンへの着陸を決断した。その時までに既に37時間、連続して昇降舵を操作し続けていたルートヴィヒ ・デューアは疲れ果てており、航法ミスをして飛行船は梨の木に衝突した。そのとき、飛行船の先端はひどく損傷してしまった。

救援隊がすぐにフリードリッヒスハーフェンから鉄道でゲッピンゲンに向かい、事前準備なしに木材で船首を作った。前部の3つのガス嚢が破壊したので、前部エンジンと不必要な機器は撤去されてしまった。

修繕された飛行船は6月1日の14時40分に出発した。シュヴァーベン高地の山上で、飛行船の乗組員達が徒歩で押したり引いたりして、やっと1909年6月2日に幸運にも母港のフリードリッヒスハーフェンに到着した。

LZ5は工場で完全に修理され、7月24日に再充填された。それは陸軍飛行船ZⅡとしてケルンに配備されることになった。

そこまでの道中にツェッペリン伯爵は工場の従業員とともにILA(国際飛行船航行展示会)を訪れた。7月31日にマンツェルを出発し、激しい暴風雨や雹と闘いながらシュヴァーベン高地を越えた。およそ12時間かけて、やっとフランクフルトの展示会場に到達した。ツェッペリンの飛行船は嵐のような大歓迎を受けた。

パーセヴァル少佐が持つライバルの飛行船もILAに招待されていた。だが、パーセヴァル飛行船がテントのブースに設置されている一方、自分達の飛行船は広い大空のもとに展示されていたことをツェッペリン関係者は誇らしく思った。さらに、パーセヴァルの飛行船が到着したのはZⅡが入ってからで、しかも、向かい風のために鉄道貨物として持ち込まれたのである。

8月2日には暴風雨が予報されたので、空中で悪天候に遭遇することを懸念して、ツェッペリン伯爵は飛行船をケルンに輸送することを適確に決定した。彼はライン下流域へ大胆にも荒天飛行に飛び立った。ひどい向かい風のためにケルンには到達できず、彼は夕刻ILAに戻ってきた。実際に、彼の留守中に展示会場では霰まじりのひどい雷雨が荒れ狂っていた。エヒターディンゲンの記念日である8月5日に、飛行船はケルンに飛び陸軍に引き渡された。

8月25日には、既に次の飛行船LZ6の初飛行が行われていた。それに乗ってベルリンに行った。

フランクフルトのILAでは注目すべき飛行が行われた。その当時ドイツは国家として 差し迫った飛行船の必要性はなく、LZ6は1910年の夏に、ドイツ飛行船運輸株式会社 DELAGの最初の旅客用飛行船とすることになった。この飛行船には、前部と後部のエンジンゴンドラの間に乗客用キャビンがあり、概ね 鉄道車両のような形状で、約20人の乗客用のキャビンが飛行船の胴体に設置されていた。

後に(LZ7擱座のあと)、改良され、素晴らしく立派に艤装された。さらに飛行船は8m延長された。第3エンジンは最初、マイバッハエンジンが装備されていたが、性能は230馬力から370馬力に増強された。ツェッペリン伯爵はカール・マイバッハ技師に飛行船用エンジンの開発と製造を任せていたのである。

DELAGによって -ツェッペリン飛行船製造が設立した- バーデン・バーデンの周辺上空からストラスブルクやカールスルーヘへの周遊飛行が行われ、天気次第で基本的には数時間の連続飛行が行われた。それによって、DELAGは飛行船の航行を普及することを狙って、乗船の便宜を図ったのである。

このようにしてDELAGの中で、飛行船の顧客が見つかった。その顧客によってツェッペリン飛行船製造は、エッケナー博士やルートヴィヒ・デューア達の飛行船にある程度対応できる状況を維持できた。

そこに1910年9月14日に大事故が起きた。エンジンゴンドラをベンジンで清掃中にエンジンを始動したときのスパークが発生して、ガソリンに火がついたのである。ゴンドラの清掃員が誤って火のついたバケツをゴンドラから落とし、当然そこから炎が広がり飛行船が全焼してしまった。

短時間に飛行船は完全に焼失してしまい、またしても終わってしまった。

しかし、そうこうしているうちに1910年6月19日にLZ7ドイッチュラントが完成した。
だがその飛行船も、初日からトイトブルクの森で樹に乗り上げてしまい、それでDELAGには1910年9月には運航できる飛行船がなくなってしまった。

飛行船LZ8は、同じくドイッチュラントと命名され、1911年3月30日にDELAGで就航し、わずか24回の飛行で1911年5月16日に突風のためにデュッセルドルフの飛行船格納庫に乗り上げて、そのために解体されることになった。

たとえ、これらすべての事故で怪我人が出なかったとしても、DELAGにとっては成功を約束する出だしとなった。それによって、多くのことが行われたからである。国内の至るところに飛行船格納庫が建設された。例えば、バーデン・オース、フランクフルト・アム・マイン、デュッセルドルフ、ハンブルク、ベルリンのヨハニスタール、ゴータなどである。飛行船LZ10シュヴァーベンが初めて呪縛を打破した。シュヴァーベンは1911年7月にバーデン・オースに配備された。その飛行船は、そこから多くの素晴らしい飛行を実施した。ゴータ、ポツダム、ベルリン、デュッセルドルフ、フランクフルト・アム・マインの街に設置された格納庫の間を移動した。また天候が許す限り、その場所から毎日午前中に1時間あるいは2時間の周遊飛行を行った。このようにして、この飛行船は218回の飛行を行い、4354人を乗せて飛び、そのうち1553人の乗客が有料で乗り、その間の飛行時間は479時間におよんだ。

建造番号LZ11の、次の飛行船は同じくDELAG向けの旅客用飛行船で、王女の名前にちなんでヴィクトリア・ルイゼと名付けられた。この飛行船はさらに大きな成功を博し、1912年の2月以降1000回以上の飛行を達成した。それにより、1292時間、64,125kmを記録し、総計で22,039名を乗船させている。

ここで、ツェッペリン伯爵の最も身近にいた協力者達について述べようと思う。飛行船製造社における技術面のリーダーはルートヴィヒ・デューア博士で、彼は1899年、最初の飛行船の建造中にツェッペリン伯爵と出会っていた。デューアが誠実で信用できる技術者であることを伯爵は見抜いていた。また、デューア自身も、どんなに状況が悪いときでも、伯爵が給与を支払うかどうかなど全く顧みることなく、決して彼を見捨てることはしなかった。また、専門家があり得ない夢物語として片付けたことに、若手の専門家であった彼が専念し続けたということは評価に値する。彼同様に才能があり物事に熱中する素質のある若い技術者、カール・シュタールをツェッペリン伯爵のもとに連れてきたのもルートヴィヒ・デューアであった。カール・シュタールは、ルートヴィヒ・デューアと同じくシュトットガルトの機械技術養成学校で学んだ。そこから今日のエスリンゲン工業専門学校が創られた。彼はそのあと、後に一大自動車メーカーになったゴットリープ・ダイムラーのもとで働いた。

カール・シュタールは、飛行船製造社で建造主任となり、貴重なエンジン製造の知識をもたらした。彼は、ツェッペリン伯爵の多くの航路啓開飛行に加わった。さらに彼は、デューア、ハッカー、ロッシュとともに、重要な自由気球飛行を達成している。その気球は、水上格納庫の屋根の上にある空の気嚢から水素を充填され、航法と「空気より軽い」航空機の操船練習に役立てられた。

ヴェルサイユ条約により、第一次世界大戦後は飛行船の建造が禁止されていたので、カール・シュタールはドルニエ航空機へ移った。しかし、高齢に達するまで、彼はツェッペリン伯爵と彼の飛行船と強い絆で結ばれていた。

もう1人、伯爵が信頼をおいていたのはフーゴー・エッケナー博士で、この強い個性をツェッペリン伯爵が見出したことはきわめて興味深いことである。エッケナー博士は、文学的-国民経済学と並行して、ジャーナリストとしてフランクフルター・ツァイトゥンクで仕事をしており、彼がフリードリッヒスハーフェンに住んでいたので、1900年10月に行われたLZ1の2回目の浮揚の機会に、ツェッペリン伯爵の試験飛行を報告することになっていた。彼は1隻目と2隻目の飛行船を、決して興奮することなく観測し、ツェッペリンの飛行船建造を批判した。しかしながら、その批判はとても客観的で建設的であり、ツェッペリン伯爵も自身の試験飛行を非常に深い専門知識で判断したその人物と知り合いたいと思った。それで、ツェッペリン伯爵はエッケナー博士を訪ね、エッケナー博士は伯爵の飛行船以上にその人物に魅了され、二人は連絡を取りあうことになった。エヒターディンゲンの大事故のあと、国民の義捐金によってツェッペリン飛行船製造有限会社を設立することが出来、ツェッペリン伯爵はエッケナー博士をその会社に呼び寄せた。さらに、エッケナー博士はDELAGで飛行部長兼飛行船船長になった。彼は偉大で立派な成果を上げた飛行船指令であり、彼はまたツェッペリン伯爵の事業を完成させた人物でもあった。なかでも彼の偉大な功績は、いくつかの飛行船が犠牲になったのは飛行船の操船についての知識不足が原因であると認識し、それをふまえて、精力的に、かつ系統的に飛行船航行要員の養成に尽力したことにある。

それに劣らない重要人物はアルフレッド・コルスマンであった。彼はリューデンシャイデのアルミニューム工場の経営者、カール・ベルクの娘婿で同じくアルミニューム合金も開発していた。カール・ベルクは、既述のように当時まだ生産が始まったばかりの若い素材であるアルミニュームを、飛行船とその運用に全面的に投入する機会を予感していたのである。彼はツェッペリン伯爵を最大限に支援した。ただアルミニュームの型材を納入しただけではない。わざわざリューデンシャイデに設置された格納庫のなかで最初の飛行船の桁を造り、試験的に足場ブロックを組み立てたのである。アルフレッド・コルスマンはツェッペリン伯爵に、まだ1908年8月5日のエヒターディンゲンの大事故が知らされる前に、飛行船建造に協力することを申し出ていた。ツェッペリン伯爵は新しくツェッペリン飛行船製造社を設置するときに、早速彼を責任者に就任するよう要請したのである。アルフレッド・コルスマンは、その職に1930年まで留まった。彼は こと運営に関しては厳しい経営者であり、飛行船の建造にかかわらない子会社を創設することにより、可能な限りしっかりした基盤を築くことにすべてのエネルギーを投入した。ツェッペリン伯爵と同様、彼は飛行機の製造をも非常に強く推進した。変化に富んだ飛行船航行の歴史は、彼に未来への懸念を抱かせる契機となったのは明らかである。そうして、飛行機、伝動装置、格納庫など、その間に大きく成長したツェッペリン・コンツェルンの力を安定的に、また継続的に活かすために、彼は常に新しい製品を探し求めた。エッケナー博士やデューア博士のようにすべてを飛行船に集中して努力している人達は、このことをあまり理解しなかった。そのために経営者コルスマンは、ある時期にその地位を返上し、ツェッペリン飛行船、すなわちLZ127は最大の業績を成し遂げて、全地球を巡った。

この強烈で顕著な個性を持つ3人を魅了し続け、またその仕事に熱中させることが出来たのはツェッペリン伯爵の特別な才能であった。

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