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陸を越え、海を越え

Bild63

Hugo Eckener著 "Im Luftschiff über Länder und Meere"(続き)

ZRⅢ(ロサンゼルス)の飛行(1)

硬式飛行船「ツェッペリン」は、偵察用あるいは攻撃用兵器として、第一次大戦における特定の軍事的価値として以外に扱われることはなかった。

当初、飛行船のガス容量は2万立方m、上昇限度は2000m、時速75~80kmであった。しかし、それで具体的な障害に出会うことはなかった。飛行機はまだ幼児期であり、有効で組織的な対空防御は存在しなかった。

変化は早く、防御はより効果的となった。これに応じて飛行船にも改良が加えられた。3万、4万、5万立方mと大型化し5万7千立方mとなり、上昇限度も5000mに達し、時速115~120kmと高速になり、強風下でも飛行できるようになった。終戦まで続く、攻撃と防御の競争であった。

しかし1916年になると、燐による焼夷弾が使われはじめ、その頃から飛行機の上昇性能が飛躍的に向上したので、陸軍は飛行船の使用を諦めた。ただ、ドイツ海軍のみが使用を続け、しばしば爆撃(特にロンドン)を実施し、北海の偵察飛行を行っていた。

飛行船は、大きさで7万立方m、上昇限度は7000mに達し、ツェッペリン飛行船の活動実績から非常に大型のツェッペリン飛行船は、危険で効果的な兵器であるという軍事的価値が評価されていた。それ故いわゆるロンドン条約議定書はドイツに容量3万立方m以上のツェッペリン飛行船の建造を禁止したのである。

これはツェッペリン社とアメリカ軍事委員会がベルリンで、ツェッペリン社が米海軍省のために飛行船を作るべきかどうかの討議が開始されていた1920年時点のことであった。終戦時に、残った4隻のツェッペリン飛行船が押収され、後日 連合軍で分配されることになっていた。これらの飛行船は整備中で、海軍飛行船基地で海軍兵によって管理されていた。しかし、降伏したドイツ海軍艦艇を乗組員が英海軍基地スカパフローで自沈させ、飛行船の乗組員がこれを知ったのである。彼らは飛行船を格納庫で破壊してしまった。

連合軍はこれに対してそれぞれの国に賠償を請求し、アメリカに対する賠償額は80万ドルとされた。これがツェッペリン社との交渉の始まりであった。我々は補償を金で支払うのではなく、代船を建造することを申し出た。この提案を政府や財務省を通じてではなく、直接にアメリカの軍事委員会と折衝することになった。

アメリカ軍事委員会は直ちに我々の提案に興味を示し、海軍省と交渉の結果、アメリカはその飛行船をアメリカで完全な状態で受け取るという条件で、80万ドルの代わりに新造飛行船を受け取ることを快諾するという結論に至った。納入のための飛行は、飛行船の耐航性を証明することにもなる。ツェッペリン社はこの条件を受け入れたが、これで交渉が終わったわけではなかった。

ZRⅢ(ロサンゼルス)の飛行(2)

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