しかし、飛行船は米海軍のキビキビとしたグランドクルーの手で上手に引き回され、繋留マストまで曳いて行かれ そこでしっかり繋留された。その間に乗客は、世界的に有名な映画の街を訪れるために下船していた。
飛行船には当直のものだけが残り、米海軍の加勢を受けて次の区間の飛行準備にあたった。浮揚ガスと燃料を満載しなければならなかった。燃料ガスの4分の3とガソリンを太平洋を渡るために消費していたからである。搭載され、まだ残っている燃料は35時間の飛行で使い果たすと想定された。ロサンゼルスからレークハーストまでは約50時間かかると予想されるのでこれでは不足であった。緊急時にはエンジンを低速で駆動し、レークハーストまで残量で何とかたどり着けるかも知れなかったがそれは危険な賭であり、ロサンゼルスには計画に従って燃料が用意されていた。
ハースト氏の主催する晩餐会が素晴らしい雰囲気で開催され、よく行われるような技術の発展や国際商取引などに関するスピーチが行われていた。カリフォルニア沿岸の人達にとって、この広漠とした太平洋を日本から3日で飛来した飛行船と遭遇することは本当に貴重な経験であった。
しかし、私は心の底からリラックス出来なかったので、まもなく作業の様子を見るために飛行船に戻った。ここでの着陸の様子から心配であったからである。
当直士官として現場を指揮している友人のフレミング船長に会った。彼は「博士、飛行船が重くて上がりません」と言った。
私は搭載してきた水素と燃料の量を計算した。日中、太陽に暖められたガス嚢が大量のガスを吹き出したものと思われた。ガスの充填は夕方になるまで始めることが出来なかった。その飛行場のガスボンベは空であり、ガスの充填は不可能であった。
乗組員の一部を下船させ、列車でレークハーストに向かわせなければならなかった。その上、燃料とバラスト水をギリギリ最小限まで減らさなくてはならない。こうして、なんとか飛行船を「ウェイ・オフ」させた。
しかし、飛行船はしっかり冷やされた地表層の空気で辛うじて浮いているのであり、上空の暖かい空気層に上がるやいなや、すぐ重くなることは目に見えていた。イチかバチかの危険な操船を試みなければならなかった。
「全エンジン、前進!」それで飛行船はちょっと浮き上がった。徐々に暖気層に上がっていった。
やってみた。そして、うまく行くように見えた。しかし、地上およそ5mくらいの後部ゴンドラに伴走しているとき、正面に突然高さ約20mに斜めに張られたワイヤがあるのを見つけた。それを乗り越えなければならない。もっと高度を取るように昇降舵をいっぱいに効かせた。しかしそのとき、船尾では垂直尾翼の下端が地表に触れた。このままではワイヤに掛かるのは間違いなかった。もう一度船尾が地面に当たった。そして、そのときワイヤを1mの差で飛び越えていた。
大変な緊張のあと、やっと少し気分がおさまったが、手足は長時間鉛のように重かった。次は垂直尾翼に重大な被害がなかったかどうか確認することであった。調査に行った技師が戻って報告して、それほど重要でない桁が一本曲がっていたが「ほかに何も生じていない」と言うことであったので、この件でそれ以上心配することなく飛行を続けた。しかしながら、このアメリカ大陸を渡るこの飛行を、かつて経験したことのない不安で始めたことは認めざるを得ない。
降りかかってくる困難のすべてに打ち勝つことが出来るであろうか?この飛行の出だしは殆ど絶体絶命であった。なぜなら飛行船にバラスト水を載せていなかったからである。この飛行区間をバラスト水なしで、従ってガソリンも最小限度で達成しなければならないのである。
この地域の予測しがたい天候のことを考えた。アリゾナやテキサスの砂漠では熱帯のような暑さであろうし、突然 寒冷前線や北西からの雷雨前線に遭遇するかもしれないし、この季節にはカリブ海から内陸部に竜巻やハリケーンが来るかも知れなかった。
私はまだ、北米大陸の天候条件について疎かった。高緯度のシベリアを渡ってきたことと較べようもなかった。
多くの幸運に恵まれなければレークハーストに到達することは出来なかった。飛行船は、その性能を発揮できる状態ではなかった。そのとき私はそう考えていた。だから、何かするときにはそれなりの理由が必要であった。