エジプトへの飛行が薄れていた関心を高めたことは確かであった。最も若い機関員に至るまで飛行船乗組員全員の士気が上がった。
彼らは多くの美しい光景を眺め、沢山の経験を積み、この種の航海のすばらしさを体得した。そして、遠く離れた場所に対してある種の冒険に満ちロマンティックな気分を抱くようになったことは驚くには当たらなかった。
彼らは世界一周飛行を夢想しはじめ、やがて話題に上るようになった。飛行船が何でも出来ると確信したからであった。
その飛行の構想は私にとっても同じように特別のものではなかった。世界中のあらゆる条件でツェッペリン飛行船の有効性を実証することと、あらゆる地域で経験を得ることはツェッペリン社の民間事業部門の仕事であった。
それを実現するために世界周航より良い方法があるだろうか?
同時にそれは飛行船の航続距離と行動半径に関する輝かしい証明を確立し、世界中に宣伝することが出来る。
この飛行の技術的可能性に関して必要ならば2箇所の中継点を使うことが出来る。レークハーストと東京郊外の霞ヶ浦飛行船格納庫である。日本にある格納庫は世界大戦後、ドイツから賠償として搬送され現地で再建されたもので、世界周航に当たってドイツの飛行船に使用できるかどうかは確認できておらず、支障になる可能性もあった。だからといって話題に上っている世界周航に同意できないというわけでもなかった。
しかしその件に関し、決心することは簡単ではなかった。それには2つの理由があった。
第一は、一体誰がこの飛行の費用を負担するのか
第二は、どのルートをとるべきか?
の2点である。
この飛行に要する経費は最低でも25万ドルと見込まれていた。その大部分は東京でのガス補充と燃料の準備に掛かる費用であった。エンジンを駆動するために特別な燃料ガスが必要で、少なくとも25万立方mを日本に海上輸送し、そこで保管するために機関士を派遣しなければならなかった。それにはどのくらい掛かるのだろう?
ドイツ政府には殆ど期待できなかった。当時、ツェッペリン飛行船に非常に消極的であった。
主に自分達で賄わなければならないが、それは非常に難しそうに思われた。世界中の切手蒐集家たちがどのくらいツェッペリンの消印に興味を持っているのか把握出来なかった。どうやって推定すれば良いのだろう?
この件で困惑しているときに、気前の良いアメリカの大手新聞社主、ウィリアム・ランドルフ・ハースト氏の驚くべき提案が飛び込んできた。飛行船上から世界中に独占報道を認めることの見返りに15万ドルを支払うという申し出があったのである。
その額は推定所要経費の3分の2に相当する。私は喜んで申し出を受けた。
しかし残念ながらこれは受け入れられないことに気がついた。もし、ドイツの新聞社を報道関係名簿から外したりすると彼等は私を非難し、批判側にまわるであろう。おそらく、正義とは無関係にツェッペリンは長年にわたるドイツの誇りであり、ドイツの新聞社はこれまで出来る限り助けてくれた。少なくとも信じてくれた。
それでハースト氏の申し出に対して、イギリスを除くヨーロッパは独占権から除外すべきであり、その報道権は彼らが望む限りドイツの新聞社に残すべきであると答えた。それに対してハースト側は金額を10万ドルに減額した。