1908年8月14日のメモによるとシュッテは、ツェッペリン飛行船の問題は、惨事の特定の要因による要素は少なく、基本的な設計過程に起因する方が多いと述べている。
(船舶と相互に補完関係にある)飛行船には、それ自体悪天候への対策が必要であるが、それ以前に、飛行船そのものの信頼性を確立することが必要であると言う。
シュッテは、汽船の船殻の二重底に類似した強化二重フレームを提唱している。
彼はさらに、水上船舶のように飛行船は、船首から船尾まで、動きを阻害しない強度なキールを備えるべきであると言っている。
飛行船は、一体として構成された水平、垂直安定板を船尾のみに設けるべきであり、舵は船舶で長く実証されてきたように船尾に設けるべきであるとも述べている。
プロペラは、飛行船の外側に設けられたゴンドラに搭載されたエンジンに直接とりつけねばならず、そうすることによって動力損失が低減され、飛行船の船尾で発生する推力を向上させることが出来るという。
(シュッテの主要な功績である流線型の船体と水素を用いた浮揚ガスを弁操作する内蔵排気筒は、少し後に開発されている)
ツェッペリン伯爵に、この提案がもたらされたとき、彼は慇懃に、しかしはっきりとその計画に採用することを断っている。
彼はそんなことを考えても居らず、シュッテはそれで飛行船の設計に興味を失ったかのように思える。しかし、やがて再び興味が頭をもたげ、意欲が湧いてきた。
若く輝かしい専門家であるシュッテは、表立ってツェッペリン伯爵と直接張り合うことはなかった。事実、彼は専門家としての生き方を述べる際の書き出しに「巨人の影で」という表現を用いている。
彼は、常に老飛行家の賞賛者であった。伯爵が1909年8月にベルリンで、やっとLZ6の飛行に成功したときに、シュッテは伯爵に心からの祝電を届けている。伯爵はそのほかから届けられた祝いと同様、その祝電に丁寧な返事を出している。
シュッテの老飛行家への尊敬は変わることがなかった。『ツェッペリン伯爵の棺台で』というエッセイで、シュッテは1917年に、次のように称賛している。「この偉大な、倦むことにない、絶えず創造していた英雄である飛行家をドイツ国民は敬愛している。」と。
1918年に起きた伯爵の事業の後継者問題に関して、冷淡な考えが伺えることは注目に値する。
後に、ある解説者が、シュッテの提案が持ち出されたときのツェッペリンの素っ気ない拒絶は、技術者の「ドイツ人によくあるへそ曲がり」という気質によるものではないかと言っている。
しかし、造船技師には受け身になる謂われはなかった。