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飛行船運航者、経営者とときの政策

Schuette

第2章 巨人の影:造船学教授ヨハン・シュッテの生涯とその業績への考察

その3


科学的手法と洞察に基づく技術分析により、硬式飛行船にまつわる得体の知れない概念から脱却させるために、試行錯誤による試験飛行を行う必要があった。

後年の彼の写真を見ると、すっかり教授然とした威厳を備えて厳めしく真っ直ぐ頭を上げて、真ん中できちんと分け両側に櫛を入れた灰色掛かった髪と、基本のある山羊鬚と両側でひねり上げた濃い口髭は、ウィリアム2世本人のような立派な風貌である。

若い頃の彼は、非常に気さくな教師であり、助言者のような好感を持てる人物で、大学の学生に親しみを感じさせていた。彼の活力と知的な活気はよく知られていた。彼は、明るく輝く人物であった。

このような性格が第一次世界大戦の終わりまで彼の人格を形成していた。

その後、彼が誇りに感じていた王室が崩壊し、彼が信じていなかった社会主義者の共和国になり、性格もやや疲れを感じさせるようになった彼の、飛行船事業を再立ち上げしようとする終わりのない闘争が始まった。

シュッテは設計の原案にいち早く改良を加えて、飛行船の設計にさらに新しい機軸を追加した。

1908年の秋から翌年に掛けて、様々な覚え書きが内務省の事務局長レワルド、プロシアの飛行船大隊のグロス少佐、陸軍省、参謀本部、海軍省、皇帝その人にまで届けられた。

これらの官庁からは、シュッテの技術的な改良を評価する励ましや前向きな反応が返ってきた。

彼らはまた、おそらく科学的原則に基づいて作業する設計者の振る舞いを、飛行船で失敗し、関連する社会とのつながりに掛かる圧力に苦しむ伯爵と接触することで鮮明に浮き彫りにしたのであろう。

その結果1909年4月、マンハイム・ライナウに工場経営者カール・ランツ博士とアウグスト・レヒリングの支援により、資本金35万マルクでシュッテ・ランツ飛行船製造社が設立された。

この国の様々な官辺の取り組みは、ボーデン湖畔の悲嘆の国家的英雄に代わるビジネスライクな動きであった。

造船技師の科学的手法と技術の経験にもかかわらず、最初のSL(シュッテ・ランツ)型飛行船の建造は、予期せざる設計経費、工事の遅延、膨大な予算超過で不安に満ちたものであった。

ツェッペリン伯爵から後の1920年代の英国のR101に至るまで、多くの先駆的飛行船設計者と同様に、シュッテは建造中の飛行船の仕様を変更し、改良を加えた。下請けや期限を守れず、正確な仕様が満たされなかった。

最も重要な構造革新であり、同時にSL設計のアキレス腱は、3枚以上のベニヤをカゼイン糊で合わせて造った桁の使用であった。

研究者ロビンソンは、技術者として重量軽減と弾性を保持するためにこの構造素材を選んだと書いている。

評論家ハーランドは、飛行船はもともと空中に浮かんで観測し、無線でそれを伝達する物として考えられていたもので、シュッテは巨大な金属製飛行船構造の潜在的障害を回避しようとしたのだと考えた。

彼は、ツェッペリン伯爵を越える対抗者になろうとしていたのである。

その4

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