ヨハン・シュッテの名声を挽回するときが来た。
明るい夏の朝、いずれも飛行船史研究家であるアメリカ人教授と、そのドイツの友人が由緒ある中世風の木骨建築と沢山の花を飾った古くからのオルデンブルク市の、近代的に装いを改めた街路を歩いていた。
あの飛行船設計者の個人記録が再整備されたことを祝うために、この地方の文化協会、オルデンブルギッシャー・ランドシャフトの職員に逢い、祝福を述べるためにこの本部に来たのである。
集まった人々は、背の高いグラスに泡立つシャンペンやウィスキーで乾杯した。
そこにはドイツの近代的飛行船の設計に多大な貢献をした、人気者の「ヤン」シュッテ少年の心温まる想い出があった。ここで飛行船と言えば、決してツェッペリンを指さないのである。
また、青年ヤンのちょっとした過ちを、理解し苦笑しながら思い出していた。10代後半のころ彼は、そこに住む公爵の令嬢に、予告もなく逢うためにオルデンブルク城の壁をよじ登ったのである。面会はかなわず、若いシュッテはその後、名声と幸運を別の場所に探すことになる。
想い出はさておいて、真面目にシュッテのその後を辿ることにする。
彼は1934年のドイツ空軍の創設をとても喜び、技術面よりも国家の支援を賞賛した。
1938年に、半世紀前 彼が捉まったその城でヨハン・シュッテ記念館と、シュッテ・ランツ博物館の除幕式が行われた。そのときに彼の名がオルデンブルクの名士録に記載され、当然のことながらナチの宣伝活動にも利用されている。市長は厳かに「ツェッペリンの伝統を保存するフリードリッヒスハーフェンのように、いまやオルデンブルクもシュッテ・ランツの偉大なことを断言する!」と宣言した。
ナチがドイツから抹消されて7年後、ヤン・シュッテの公式評価も消滅した。彼の名前は名士録から削除され、博物館も解散し、生まれた息子の大きな壁画は幕で覆われた。
いま、1979年、ヨハン・シュッテの想い出は蘇った。それと共に、ツェッペリンの熱狂者達と、かつてのシュッテ・ランツ設計の賞賛者とのあいだに鋭い反目の記憶も再現した。
初老のオルデンブルク市民、ヨハン・フリードリッヒ・ヤーンは、当初この復元の責任者であった。1960年代半ばに引退したヤーンは、幾人かの熟練文書保管者から説明を受けた。その後10年間、シュッテの専門的文書、業務書類や遺物の膨大な蒐集品を系統的に確認し、並べ替え、目録を作った。
それらは1938年にオルデンブルク市に残されていたもので、第二次世界大戦のあいだ、他の多くの 国家の、あるいは事業の資料とともに大切に保管され、破壊を免れていた。その中には、特に主要な航空設計と技術に関する蔵書が含まれており、非常に多数の図や写真、さらには実際に建造されたもの、あるいは計画された飛行船の6千枚を越えるシュッテの構造図面が含まれていた。
事実、ヤーン氏への賞賛は、シュッテ本人への賛辞と同様であり、その文書管理者によって黴くさい屋根裏部屋から持ち出されたものはおそらく最も完全な形で、それだけで今日現存している完備された飛行船の設計と建造に関するデータであった。ヤーン氏の献身に感謝し、ヨハン・シュッテの貢献は高く評価されなければならない。
これらの資料は、フーゴー・エッケナーやアルフレッド・コルスマンがツェッペリンの再興に陣頭指揮をとっていた、1919年から1929年までに、シュッテが改良を図って苦労してまとめ上げた日の目を見なかった飛行船にも光を当てることになった。
オルデンブルク公爵に仕える文官の子息として、ヨハン・シュッテはオルデンブルクで1873年に生まれ、その青年期の多くを北海に面した東フリージア沿岸で過ごした。
徹底的に教育され、オルデンブルク気質に裏打ちされて、帆走と造船に没頭した。
この興味・関心を基盤にして彼は、ベルリン・シャルロッテンブルク工科大学で技術の研鑽に励み、その間にキール海軍工廠で、船乗りとしての実習と見習士官も経験している。
1897~98年に技師の資格を得、造船技師の試験にも合格した。その後、ドイツ最大の海運会社、北ドイツロイド(NDL/NGL)の造船部門に入社し、1904年まで在籍した。
それは汽船の設計と建造の技術進展のめまぐるしい変動の時期であった。
ドイツでは、ブレーメンの北ドイツロイドは、この古くからのハンザ同盟都市で急速に興隆してきたハンブルク・アメリカ・ラインという競争相手と激しい競合をしていた。
更に重要なことに、ドイツとドイツ皇帝はこの2社によって、北大西洋の速度記録保持の証であるブルーリボンをイギリスとその造船会社から奪取する決心をしたのである。
ちょうどシュッテがNDLに入社した頃、社では設計の重大局面にあった。北大西洋横断競争に新規参入したが、造船所が保証した速度を達成出来なかったのである。
若いシュッテが、水面下船体形状の抵抗の研究を担当することになった。
彼は細心の注意で、イタリアの試験設備で使用する幾つかの船型模型を作り、どれが流体力学的に最も抵抗が少なく、結果として最も速度が出るかを突き止めた。
彼の研究成果により、NDLはその船の引き取りを拒否したのである。
シュッテは、NDLの設計部門の責任者となり、新しく設けられた実験装置の担当となった。
間もなく、キールの抵抗を低減する困難な研究に従事することになり、さらに出力を増大したエンジンを搭載した外洋定期船の船尾形状を設計し直すことになった。
この実績を含む技術革新が評価されて、1904年にシュッテは30歳という若さでダンチヒ工科大学の教授に迎えられた。そこで船体設計理論を専攻し、有能な造船技師の技術を伝承する訓練を始めた。
1908年8月に起きたエヒターディンゲンにおけるツェッペリンの惨事は、飛行船の専門家になった伯爵同様、ヨハン・シュッテの経歴を転換する決定的なきっかけとなった。
彼は、流体力学、推進システム、構造強度の諸分野における経験を駆使して、一週間以内に飛行船の船体と推進に関する一連の設計改善を提案した。