LZ127profile

最初の訪米飛行(1928年10月11日~11月1日)

Bild114

出発前日・当日(10月10~11日)

旅客用硬式飛行船「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」の最初の訪米飛行日程はコロンブス・デーである10月12日を目標に決められた。

エッケナー博士は、うまく行けば48時間で大西洋を横断できる可能性を期待して、出発を1928年10月10日と決めて準備に掛かった。

1924年に賠償飛行船「LZ126:ZRⅢ」をアメリカに空輸したときはコロンブス・デーに出発しようとした。
1924年10月12日の早朝、フリードリッヒスハーフェンを出発しようとして、格納庫内で乗務員と米海軍の受領委員が乗り込んでウェイオフしたが飛行船が重く、数百kgのバラスト水を投棄させても重すぎて涙をのんで出発を23時間延期した経緯があった。
温かい気温で霧が格納庫に流れ込み、それが冷やされたことが原因であった。
大気圧の空気は、気温が5℃上がると比重が 0.02kg/立方m 下がり、体積が10万立方mを越える飛行船は2トン以上重くなる。
エッケナー博士の著書によれば、液体燃料のガソリンを捨てざるを得なかったという。
沢山の新聞記者に囲まれて苦渋の決断をした博士は翌日の離陸時刻を、朝霧を避けて1時間早めている。

1928年10月10日、大飛行に備えて飛行船は入念に点検・整備され、100時間分の燃料が搭載され、20人の乗客や新聞記者が乗船した。

しかし、空模様は良くなかった。エッケナー博士は、考えられる最悪の状態であったと言っている。
北大西洋では風力9、10の西からの暴風で、多くの汽船が遭難し、大型定期客船は24時間遅れでニューヨークに入港していた。

エッケナー博士は、その生涯に何度も北大西洋を横断しているが、まだこのときは米海軍向けの飛行船「LZ126:ZRⅢ(後のロサンゼルス)」の空輸に続く2度目であり、当時の航法は試行錯誤の原始的なものであった。

博士は、コース取りについても随分悩んでいる。
ジブラルタル、マデイラ、バーミューダと南に迂回するコースは長すぎるので、当初北部スコットランドからアイスランドの南をかすめるコースを考えたという。
しかし、晩秋の霧の中でスコットランドやアイスランドの岩山に激突する危険性も高かった。

結局、10月10日の出発を延期し、翌日荒天が続くようであれば南ルートを取ることに決めた。それ以上延期しては飛行船の信用にかかわるからである。

その小さな街では1日の延期でも宿舎や交通の手配替えも大変で、煽動者にそそのかされた人々が飛行船会社に押しかけたりしたという。

その日、フリードリッヒスハーフェンを襲った嵐は激しい雨を伴って物凄かった。
強風が格納庫に吹き込み、とても飛行船を搬出することは出来なかった。
その嵐は一日中吹き続け、博士が寝室に入っても、屋根にあたる風の音と窓に打ち付ける雨は途切れず、1時間毎に起きあがって様子を見ていた。
嵐が弱まり始めたのは午前5時であった。

この延期は皮肉なことにエッケナー博士の気象予報能力を立証することになり、その後のスケジュール変更も、航行中のコース変更も認められるようになった。

午前6時に発着場に着いたとき、飛行船は出発準備に掛かっており、積み込む貨物や郵便物も届いていた。
格納庫のなかではエンジンが試運転のため爆音を響かせ、ガス嚢は最後の充填を受けていた。

まだコースが決まっていなかったので、フレミング船長、フォン・シラー船長と打ち合わせて最短コースに決めたという。
しかし、出発の時刻となったときエッケナー博士は、個人的に検討していた予備案である地中海経由のコースを選んだ。

午前7時半に乗船客は手荷物を持って乗船した。
航空省の代表が4名、有料の一般乗客が10名、残りの6名は大新聞の特派員であった。
そのなかに、ハースト新聞のフォン・ヴィーガント氏とグレース・ドラモンド・ヘイ女史がいた。
おそらく、ウィリアム・ランドルフ・ハースト氏は既にこの飛行船に着目しており、渡米の際に具体的条件が話し合われたのではなかろうか?

ウェイオフも済ませ、空中浮遊を確認した後、8時ちょうどに5つのエンジンゴンドラに操縦室からエンジンテレグラフで「エンジン始動。前進原速。」の指示が伝えられ、飛行船は動き始めた。

この飛行船「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」は大洋を越えて飛ぶ長距離旅客飛行船の実証実験のために計画され、建造された飛行船であり、エッケナー博士はそのことを誰よりも認識していた。

博士は「人は飛行船で飛ぶのではない。航海するのである。」と言っているように、乗船者に飛行船に乗るということはただ飛ぶことではなく、『航海』という言葉で表現される素晴らしい船旅をするのだということを体験して貰うことが大きな目標であった。

そのためには、如何なる気象・海象でも安全・確実に運航できるだけでなく、そこで快適に生活できることが条件となる。
乗客定員を限定してでも、ダイニングやラウンジは不可欠であった。
博士の『夢の乗り物』に近づいた「LZ129:ヒンデンブルク」では、Aデッキ右舷に広いダイニング、左舷側にはゆったりとしたラウンジを設け、その舷側に広々としたプロムナードが設けられ、Bデッキにはバーや喫煙室まで作られたが、実証実験船である「グラーフ・ツェッペリン」はダイニングとラウンジは兼用、船内は禁煙であった。

航洋客船と同様に料理のメニューとワインリストが用意されていた。調理室は狭かったが、2つに仕切られ、頂部にホットプレートのある電気オーブンがあった。
「LZ10:シュヴァーベン」から乗務している世界最初のフライト・スチュワード、ハインリヒ・クービスがテーブルに届けた料理は、ハインリヒ製陶から寄贈されたLZ紋章入りの食器に盛ってあった。

博士は、ティータイムには素晴らしい景色を眺めながらフリードリッヒスハーフェンで積み込んだケーキを楽しんで貰おうと思っていたという。

飛行船は、古城や中世の街を眺めながらシュヴァルツヴァルトの南縁を飛び、シャフハウゼンでラインの滝を眺めてバーゼルに向かった。

そこからフランスに入り、ブルゴーニュの葡萄畑でワイン業者の収穫を眺め、モンブランなどアルプスの名峰を仰ぎ、ローヌ渓谷を下って歴史のある街アヴィニヨンを通って昼過ぎに地中海に出た。

バルセロナ、バレンシア、アリカンテ、カルタヘナ、アルメリアとスペインの地中海岸上空を、適度に開けた窓から吹き込む爽やかな風を感じながら見下ろして飛行することを想像するだけでも顔がほころんでくる。

1基530馬力のマイバッハVL2、V型12気筒のエンジンは一番近いものでも60m後方で、しかも船体から独立したエンジンゴンドラで回転しているので振動は伝わらず、音は聞こえるものの気になるほどではない。
エッケナー博士は、その著書の中で新聞記者達の持ち込んだタイプライタの音が気になって寝られなかったとは書いているが、エンジンの振動や騒音が気になったような記述はない。

尤も、船乗りにエンジンの音は子守歌のようなものらしく、著者(越家)も大型専用船に乗っていたとき、インド洋からマラッカ海峡に入るあたりでエンジントラブルのために漂流したときは、その子守歌がないので眠りにくかった記憶がある。

イベリア半島の地中海岸を航行しているうちに次第に暗くなった。
スペインの海岸が飛行船の明かりで辛うじて見える頃、光りの海のような街に来た。バルセロナであった。

街と港の上空を低く旋回して郵嚢を投下した。
その中には船上で投函された新聞記者の記事原稿や、乗客の書いた葉書も含まれていた。

ツェッペリン飛行船は郵便業務を受託していたが、それは郵嚢を運搬するだけでなく、宛先別の仕分け・消印業務も含まれていた。
著者の見たものだけでも訪問先のイラストを入れた消印は90~100くらいはあると思う。
ツェッペリン飛行船の郵便業務による収入は一般に考えられているよりずっと多い。
後に「グラーフ・ツェッペリン」は南米航路に就航し1931年から1937年までに60回以上往復しているが、郵便事業も貨物とともに大きな収入源であり、1935年にはルフトハンザの飛行艇の肩代わりにアフリカとブラジルの間を郵嚢運搬のために3回も無着陸往復している。

「グラーフ・ツェッペリン」はバルセロナから夜のバレアレス海沿岸を南西に向かった。
右舷に遠くバレンシアの街明かりが見えたという。左舷側はマジョルカ島、イビサ島の方向にあたる。

ナーオ岬の上空で針路をさらに西に取ってジブラルタルに向かい、バレンシア沖通過して1時間後にセウタ燈台とジブラルタルが正面に見えた。

博士はいう「楽しい旅とは、この地中海上空の飛行のための言葉であり、それはまた翌日の大西洋飛行のための言葉でもあった。」と。

第2・3日目へ

トップページに戻る