LZ127profile

最初の訪米飛行(1928年10月11日~11月1日)

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第2・第3日目(10月12~13日)

フリードリッヒスハーフェンを出発してから地中海まで、その後地中海のほぼ全域で受けていた時折強くなる向かい風は洋上に出ると徐々に好転しているように見えた。

ジブラルタルを過ぎて1時間後には、海面は北北東の風に波立ってきた。ポルトガルで有名なノーザーという風である。
風はその後東に向きを変え、ジブラルタルから3時間後には北東の風が強くなり追い風を受けて飛行船は順調に進んだ。快晴、青い海には時折白い波頭が光っていた。強い向かい風を脱した。

針路をマデイラに取った。
マデイラはリスボンの南西約1000kmの大西洋上に浮かぶポルトガル領の諸島である。 主要な島は4つで、マデイラ島にある首都フンシャルは14万人が住み、花篭の町と呼ばれている。
アメリカ大陸の発見者として知られているコロンブスはポルト・サント島からフンシャルに移り住んだと聞いている。
このほかに無人のデゼルタス島、セルヴァンジェンス島がある。
位置は、北緯32~33度、西経16から17度でモロッコのカサブランカの真西に当たる。
緯度は瀬戸内海とほぼ同じ温暖な気候でヨーロッパのリゾートで、マデイラワインでも知られている。
私事になるが、3年程前、ウェブで筆者のページを見て、フンシャルのセバスティアーナさんという人から船の絵はがきの交換を提案されたことがあった。

エッケナー博士がこのルートを選んだのは、距離は長くなるが定常的に東風が吹くので、追い風を期待してのことであった。

現地時間の午後1時には、靄の中からマデイラの山が見えたと記している。おそらく、標高1862mのマデイラ島最高峰ピコ・ルイヴォ・アシャダ・ド・テイセイラの頂部が見えたのであろう。
博士は、まもなく緑の葡萄畑と白い別荘、火山島特有の絶壁や渓谷が見え、人々が家から走り出て、大声で叫んだり手を振っていたと述べている。

珍客を迎えて大騒ぎのフンシャル港も郵嚢を投下している。記者や乗客が船内で書いた葉書であり、量はそれほど多くなかったはずである。

マデイラを出て8~10時間、西北西に飛行して夕方遅くアゾレス諸島の南250マイルに到達した。
ここのテルセイラ島にある無線局と交信して気象情報を得ようとしたのである。

しかし、そこで得た情報はあまり嬉しいものではなかった。
大西洋沖の低気圧から南に延びた驟雨前線がその島に接近中で、その1時間後にはひどい雷雨のために交信が途切れ、北の夜空に鮮烈な稲妻が見えた。

真夜中には、北天全体が絶え間なく炎のような稲妻に覆われていた。
エッケナー博士は、冷気が予想以上に南まで下がってきていると判断し、いずれ飛行船も捉まるだろうと考えたと記している。

しかし、その夜は穏やかな天候のなかを西に向かった。
10月13日の朝6時には前方に黒雲が立ちふさがっていた。
グラーフ・ツェッペリンは75ノットの全速でその雲の壁に突進した。

飛行船が乱気流で揺れることを予測して、エッケナー博士は経験豊富な昇降舵手ザムトを呼びにやり、昇降舵を任せようとした。
しかし、操舵手が交替する前に飛行船は船首を下げ、次の瞬間 突然上向きになり、船体傾斜は15度以上に傾いた。
その傾斜で当直士官は転けてデッキを滑り、操舵室は狂乱状態になった。
朝食の用意をしていたラウンジでは、テーブルにセットされていた食器類は散乱し、キッチンポット、フライパン、湯沸かし等がコンロから落ちてデッキ上のカップボードやドアにぶつかった。

雷鳴の轟く騒音のなかで、次は何が来るかと身構えた。
この時点では、船体構造の破損状況など心配するどころではなかった。
しかし、その後は驟雨の中で船体を前後左右に揺られてはいたが、幸いそれ以上のことは起きなかった。

ザムトが昇降舵を操作し、何とか飛行船のピッチングを押さえ込んで少し安定した飛行になった。
エンジンの出力を半減させて航行を続けている。

エッケナー博士はこのときのことを後日、おそらく北大西洋で最も過酷な荒天を乗り切って、その処置に非常に満足したと述べている。
船尾が持ち上げられた主たる原因は、経験の浅い昇降舵手が船首の微妙な動きに対して対応が遅れたためであると考えたようである。

別の機会に、昇降舵手の人選が一番重要であるとも言っている。
天気図の気圧配置を頭に入れておき、雲の状態や気温・湿度、それに予測される微かな船体の動き始めを気配で感じて、ピッチングが起きる前に昇降舵を操作してそれを押さえ込む能力が必要であるという。

このあと1時間近く暴風雨のなかを進んだので、飛行船はずぶ濡れとなり、天井からキャビンに漏水し、操縦室では、昇降舵手も方向舵手も、当直航海士もワッチオフィサーも、靴も靴下も脱いで水の中に立っていたという。

グラーフ・ツェッペリンは6~8トンの雨水の重量が掛かっても減速して航行を維持できるし、全速で航行すれば、12トンの過負荷でも飛行継続が可能な筈であったので、最悪の場合でも生き延びられると思ったと述懐している。

緊急事態が一段落すると、当然各部に異常がないか点検を始めた。
点検を終えたグレッチンガーが操縦室のエッケナー博士に船尾の安定板の損傷を報告してきた。
左の水平安定板下面の外被が裂け、その端布が安定板と昇降舵の間で絡まりそうだと言うのである。
これは非常に深刻な事態であった。

そのときの位置は、スペインと北米海岸のほぼ中間点で、どちらからも1800浬程度の距離であった。
どんなに急いでも水上船舶で駆けつけるまでに少なくとも3日は掛かると思われた。 エッケナー博士は飛行船の信頼性の評価を損ないたくなかったが、非常に難しい決断をして乗客の安全を優先させて米海軍に駆逐艦のような高速艦艇の派遣を要請した。

グラーフ・ツェッペリンには、当時最新の無線機が搭載され、3直で通信士が24時間体制で主として気象情報を送受信していた。
長距離送信用にテレフンケン社製出力1KWの真空管式長波送信機が設置されていた。送信する場合、先に錘の付いた長さ120mの電線をリールから繰り出す必要があるが、モーターでも手動でも降ろすことが出来た。
受信機はそれぞれ6球の中波用、長波用、超長波と長波対応の3台装備されていた。
マルコーニが無線電信を開発し、1897年に初めて船舶用無線電信装置が実用化されて30年後のこの時点で、グラーフ・ツェッペリンには長波・中波・短波の送受信機が設置されていた。
ちなみに、無線による船舶気象通報の取り扱いが開始されたのは1910年のことである。

その次は、乗客・乗員をどのように洋上で救助船に降ろすかを検討しなければならない。
エッケナー博士は、飛行船船長の資格を取った直後の1911年5月にデュッセルドルフの格納庫に「LZ8:ドイッチュラント(2代目)」を引っかけ、消防自動車の梯子のような工事用梯子で20mの高さから乗客を降ろした経験があった。
著書には「乗客に目眩を起こすことなく安定した水面に降ろすか」に腐心したとあるが、ドイッチュラントの事故の際、高所恐怖症の人がいたのかも知れない。

尾翼外被の補修も急がねばならなかった。端布が昇降舵に絡むと大変な事態となる。
しかし、両大陸から遠く離れた北大西洋の洋上を飛行中に、命綱を頼りに船外に出て緊急補修をする人間を指名することは出来なかった。
志願者を募ると、操舵手として乗船していた博士の子息であるクヌート・エッケナー、同じく操舵手のラドヴィック、ザムト、それにいつも船内をよじ登ってガス嚢を点検してまわっているガス嚢主任のクノール、それにボイエルレが名乗りを上げた。
補修班の確認で、水平尾翼の第3帆布外被と呼ぶ前部区画に損傷はなく、上面外被に損傷はないことが判ったので、昇降舵にからまってその作動を阻害しないようにばたばたしている端布を取り除くことから始め、次いで残った部分を保護する補強を行った。

それは容易ではなく、危険を伴う作業であった。飛行船が前進しているので秒速20~25mの後流のなかで作業しなければならなかった。
速度をそれより下げると、雨に濡れて重くなった船体が沈降し、その高度まで上げるには増速せねばならなかった。この操船には神経を使ったに違いない。
高度500mと1000mの間を上下しながら、1時間半の作業で緊急手当を終え、その後3~4時間で船外作業が終わるまで驟雨が来なかったのは幸いであった。

天候も回復しつつあり、アメリカ海軍省に要請していた救助は不要になったと次の電報の発信が指示された。

損傷を補修しながら低速飛行をしているあいだ、エッケナー博士は客室をまわっていた。
この間の状況報告と、これからの見通しを説明し、乗船客の状況を確認するためであった。

乗客の幾人かは落胆し狼狽えていたが、しっかりした人達もいた。
小柄なドラモンド・ヘイ女史の態度は見事だったと博士は述べている。
彼女は博士が顔を見せたときに、にこやかに挨拶し、床に落ちた陶器の破片を見ながら「伯爵さまには驚きましたわ。とてもきむづかしくて機嫌を取るのにお金がかかるのですね。でも、この際、カップやお皿を気にしてはいられませんわね。」と言ったという。

あとで聞けば、食器がテーブルから落ちたとき、感情を抑えて、友人であり同僚のフォン・ヴィーガント氏に「カール、早く来て。タイプライターが机から落ちるわ!」と呼んでいたそうである。

入電してくる気象予報は北大西洋上に勢力の強い別の低気圧の存在を知らせていたが、その夜は比較的順調に推移した。

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