この「航空事業の開拓者」も開設して1年が経過した。
「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」や「LZ129:ヒンデンブルク」など1930年代の花形航空機であった硬式飛行船の装備や船上生活、それに文字通り世界を駆けめぐった大飛行の様子を再現しようと思って始めたもの事実である。
しかし、何もないところから硬式飛行船を実用化し、初めて定期航空路を開設した先人達がどんな人物で、如何にしてそれを実現していったか、英米の硬式飛行船がすべて就航後2年以内に墜落あるいは運航停止になっているのに、なぜLZ127は足掛け10年にわたって169万km、飛行時間にして1万7千時間以上を飛び、3万4千人を乗せて飛び、その間船体の損傷事故はあったものの、死亡事故なく飛び続けることが出来たのかなどに関心を持ち、文献などを調査している。
調べて行くうちに、LZ127の指令を務めたエッケナー博士、最後のツェッペリン飛行船LZ130を指揮したザムト船長のほか、118隻のツェッペリン飛行船を設計したルートヴィヒ・デューア博士、ツェッペリン飛行船を運航し、要員を養成するDELAGを設立し、ツェッペリンコンツェルンの礎を築いたアルフレート・コルスマン、数隻の海軍飛行船の当直士官を務めたあとツェッペリンに入社し、LZ127・LZ130の指令を経験したハンス・フォン・シラー船長などの人物像が生き生きと浮かび上がってきた。
それと共に、「夢の乗り物」を実現するためのプロトタイプであったLZ127が、なぜあれほど偉大な運航実績を残せたかが判る気がしてきた。
1937年最初の「LZ129:ヒンデンブルク」訪米定期便をエッケナー博士が指揮していたら、あの事故は起きなかったと思うようになってきた。
当初は一年程度の調査で「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」の船内の様子を含めて世界一周飛行について執筆するつもりであったが、第一次大戦後ベルサイユ条約で禁止されていた大型飛行船の建造を実現した経緯や、順調に稼働していた「LZ120:ボーデンゼー」などを戦時賠償に取りあげられたいきさつを踏まえた一連の流れの中で書くことが必要であると思うようになった。
従ってもうしばらく文献調査を行って考察を交えてレポートしようと思っている。
それによって、なぜLZ127が9年近くも運航できたのか、ほかの飛行船はなぜ1~2年しか運航できなかったのか、今後飛行船の定期運航の可能性があるのか、あるとすれば何が条件となるかなどが朧気ながら見えてくるような気がするのである。
先人は「人類は自然と共存出来る可能性があるが、それには人類の活動が自然の摂理に従うことが条件となる。」と言っている。
けだし名言である。
これからも大いに楽しみながら調査を続けて行こうと思っている。
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