フーゴー・エッケナーは膝の関節炎を持ちながら山歩きやヨット帆走が好きであった。
デンマークとの国境であるユトランド半島付け根の東岸の街、フレンスブルクに生まれ、フレンスブルク湾を見ながら育った。
ドイツでは北海はノルトゼーであるが、バルト海はオストゼー(東海)と呼ぶ。
エッケナーの父はブレーメンから当地に来て煙草製造業を営んでいたが、母はそのバルト海に浮かぶデンマーク領ボーンホルム島の船乗りの家系の出身であった。
このため、後に「空飛ぶヴァイキング」と呼ばれることがあり、彼もそれに満足していた。
フレンスブルクのギムナジウムを卒業したあと、ライプツィッヒやミュンヘンで哲学や経済学を学んだが、この間 何度もバルト海で外洋ヨットを乗り回している。
1900年7月2日にフリードリッヒスハーフェンのマンツェル沖でツェッペリン伯爵の最初の飛行船「LZ1」が初飛行したときもバルト海で外洋ヨット巡航を楽しんでいた。
各国の海軍や商船学校が航海練習船に帆船を採用しているのは、船乗りたるもの常に雲行きを観測し、風や潮を読む必要があるのでその訓練のためである。
バルト海で外洋ヨットを乗り回しているうちに、気象学者顔負けの気象予報能力を身につけた。
「グラーフ・ツェッペリン」の最初の訪米飛行は、フリードリッヒスハーフェンを1928年10月10日に出発することになっていた。
エッケナーは天気図を読んで天候悪化を予測したが、飛行船の信用が失われることを懸念し躊躇していたが決断して出発を翌日に延期した。
案の定、煽動者にそそのかされて、庶民の一部はツェッペリンの社屋に押しかけた。
小さな街なので、遠方から来た人はホテルの延泊も帰りの交通も手配替え出来ず、その混乱ぶりは容易に推察できる。
ツェッペリンやエッケナーを非難する声が高まったという。
ところがその夜、激しい雨を伴った物凄い嵐が来襲し、結果としてエッケナーの気象予報能力が評価され、その後は出発の決定だけでなく長距離飛行の気象予報も信頼を得たという。
イタリアンダーは、エッケナーは「天候を嗅ぎ知った」と表現している。
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