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ツェッペリンに捧げた我が生涯

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Wir fahren um die Welt

世界一周飛行へ(4)


我々はまずサンディエゴまで南下を続け、そこからメキシコ山脈に沿ってコロラド河まで航行した。
そこからアリゾナ・ニューメキシコを通り、ほぼパシフィック鉄道に沿って進み、最初のうちは左右に飛行機が伴走飛行した。そうして大きなロッキー山塊を迂回した。
それにしても、この巨大な山岳の周辺は堂々としていた。
2500mまでの高峰と玄武岩の岩壁が教会の塔のように地面からそそり立っていた。
我々はこの高い岩壁を、文字通りすり抜けた。
早朝に異常なくらい視界が良くなり、この素晴らしい大地を驚嘆して眺めた。
正午に乱気流が寄せてきたことに気付いた。
飛行船は突然、200~300m持ち上げられ、また押し戻された。
この上下動では、ただテーブルの食器類が揺れたのは気掛かりであったが、飛行船には何も起こらなかった。
またしても、この状況下での昇降舵の技量は見事なものであった。
それは、強力に舵を取ることによってこの上下動に耐えることではなく、飛行船を常に水平状態に維持することであった。

夕方、アメリカとメキシコの境界であるエルパソの街でようやく平地に到達した。
ここでは気流も安定していた。
北東に旋回し、夜ニューメキシコ・テキサス・オクラホマを通過し、翌朝アーカンソー川をタルサで渡りミズーリ州のカンザスシティに行った。
まもなく、激しく流れるミシシッピを見下ろし、40時間におよぶ飛行のあと、3日前サンフランシスコ上空のときと同じように、夕映えのシカゴ上空にグラーフ・ツェッペリンが姿を現した。
この街の3百万の住民による歓迎は嵐のように激しく、とりわけ賑やかであった。
引き続きミシガン湖上空をさらに進み、デトロイト、エリー湖畔のクリーブランドへ向かった。
そこにはLZ126:ロサンゼルスが光り輝く照明をあびて、マスト繋留されていた。

我々はアメリカ大陸の景観を楽しんだ。
そこはロシアと同じようにとても広大であったが、より多彩で順調に耕作されていた。
そして、ここに住んでいる人たちが、中欧や特に日本と較べていかに広い面積を持っているかが明瞭に見て取れた。
真夜中に空中から、アクロンにいる友人たちに挨拶を送った。
そこはツェッペリン・グッドイヤー社の所在地で、社長のリッチフィールドが経営しており、アルンシュタイン博士が主任技師を務めていた。

そこではいま、巨大な硬式飛行船「アクロン」と「メーコン」が米海軍向けに建造中であった。

いまや、我々は「アメリカの」世界一周の出発点であり、ゴールであるニューヨークへの最終コースをたどっていた。
我々は、ニューヨークでの歓迎ぶりがセンセーショナルなものになるであろうことは予感していたが、それは予想をはるかに上まわるものであった。
ニューヨーク全体が起きて立ち上がっており、すべての汽船が汽笛を鳴らし、あらゆる摩天楼からサイレンが鳴り、鐘も響いていた。
この興奮に包まれた街の上空で大きく旋回し、自由の女神像のまわりを回ると、街中でけたたましい音が鳴り、歓声が上がった。
「アメリカの」世界一周に飛び立ってから503時間後、ロサンゼルス・シカゴ・レークハーストの間(4800km)を移動するに要した52時間のあと、8月29日の7時にレークハーストで、繋留のために海軍の熟練したグランドクルーが我々を出迎えてくれた。

我々は以前にも来たセントラルパークを訪れ、そこでいろいろな自動車に分乗して、ブロードウェイを市役所まで凱旋行進した。
そして再び、いまや3回目となる階段を登って歓迎会場のホールに行ったが、そこには大きな地球儀が設置されていた。
エッケナー博士は、そこで我々の世界飛行の全ルートを描き込むことになった。

ジミー・ウォーカー市長は、我々を古くからの友人のように歓迎してくれた。
アメリカとドイツの国歌が演奏され、斉唱された。
それから我々は大きな階段を下りたときに、自然に湧き上がった大きな熱狂に巻き込まれ、やっとの事で救い出された。

その次の2日間、飛行船をフリードリッヒスハーフェンに帰航させる準備を行った。
ロサンゼルスで出発するときに押し曲げられた桁は非常に早く修理が出来た。
この最後の区間の運航は定評のあるエルンスト・レーマン船長が執ることになった。
ツェッペリン・グッドイヤー社と様々な打ち合わせのため、エッケナー博士が合衆国に留まったからである。
彼はその貴重な時間を活用し、ドイツ・アメリカ合弁の飛行船旅客運航会社の設立などを提案した。

9月1日、月曜日に帰航を開始した。
すべては素晴らしい体験であったが、故郷に帰るのがとても楽しみだった。
この上なく良い天候と順風で北大西洋を順調に航行した。
しかし次の夜、非常に密な雷雨前線に遭遇し、レーマン船長は前線の南に迂回するよう航路を変更した。
その後の飛行はまったく申し分のないものだった。それは殆ど定常業務になっていた。
9月3日、14時に飛行船はスペインの北東端に達し、9月4日の8時49分に、ほぼ3週間ぶりにふたたび故郷の地に到着した。

フリードリッヒスハーフェンでは、百万都市のような狂乱の歓迎はなかったが、気持ちでは劣るものではなかった。

もちろん、それを可能にしたのは、乗組員や乗客を乗せた飛行船を歓迎するために、国内の遠い地域からもこの飛行船基地に駆けつけてくれたすべての人々であった。
我々は音楽とともに街中を走った。
決して危険がなかったわけではないこの飛行を成功させ、我々が無事帰ってきたことを最も喜んだのは我々の家族であった。

多くの貴重な経験と、ドイツの技術の開拓者精神に対する世界的な評価のほかに、非常に多くの切手蒐集家の郵便物を持ち帰った。
世界中から手紙が我々のもとに届き、それらは郵便切手なしで郵便料金を前納したもので、特製の船上スタンプが押印されている - それは、この一度限りの飛行の証明であり、今日では非常に希少価値のあるものとなっている。
それで、切手蒐集家はハーストの支援と並んで、世界一周飛行に非常に財政的な寄与をしたのである。
こうして我々は「ドイツの」世界周航を20日と4時間で完遂した。
34200kmの距離を正味時間で、12日と12時間で飛行したのである。

旅行者が飛行機でより早く世界を一周できるようになるまで、どれほど長い年月を要したであろうか?

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