LZ127Profile

LZ129:ヒンデンブルク

Waibel_105
(マックス・プルス(左)とアルバート・ザムト(右)、両船長とも「ヒンデンブルク」の最後の航行に乗務、同書P105)

Barbara Waibel著 LZ 129 HINDENBURG

Ⅴ.ツェッペリン飛行船航行の終焉

年が改まった1937年の航行シーズンの始め、DZRは将来の商用飛行船運航に向けて前途有望な事業を開始した。運行計画では北米に18回、南米に15回航行することになっており、1937年10月27日に完成予定の新飛行船LZ130が14日間の定期航路に就航することも発表された。さらに7月に「ヒンデンブルク」はブエノスアイレスへ特別運航されることも決まっていた。アメリカン・ツェッペリン輸送会社(AZT)とDZR間で、ドイツ飛行船のAZTへの売却あるいはチャーター、およびそれに伴い必要となる乗務員の養成専門教育について交渉が行われ、1937年4月には署名を残すのみとなった。フランクフルトには2棟目の飛行船格納庫が建設されたが、それは星形(放射状)で、回転可能な格納庫で、どの格納庫についても風の向きにあわせて入庫あるいは出庫が出来る設計であった。さらに大型の旅客用飛行船LZ131が計画され、そのためにフリードリッヒスハーフェンの建造用格納庫は拡張され、東南アジアへの交通網の拡大が予定された。そこにレークハーストの事故が起こり、前途洋々たる計画は悲劇的結末に終わった。

「ヒンデンブルク」の第63次航にあたる1937年5月6日、ニューヨークの南にあるレークハーストに着陸するときに突然火災が発生した。その飛行船は、それまで33万キロメートル以上航行し、大洋を37回横断し、3000人以上の乗客を空輸した。指令はマックス・プルス船長で、一等航海士はアルバート・ザムト船長であった。エルンスト・レーマン船長とアントン・ヴィッテマン船長はオブザーバーとして乗船していた。

この飛行船は1937年4月の2度目の南米航行のあと、5月3日にその航行シーズン最初の北米航行に出発し、およそ15時にニューヨークからレークハーストの飛行船空港に来た。しかし、嵐が近づいてきたので着陸は延期され、飛行船は南方海上へ航行した。およそ2時間後、レークハーストの飛行船管制官は、気象条件が着陸可能になったと知らせてきた。それで「ヒンデンブルク」は向きを変え、およそ18時頃着陸地点に到達した。繋留柱に近づいたとき、風が向きを変えたので飛行船は方向を変えながら進行し、ほとんど逆方向から再度近づかねばならなかった。全体的に幾分軽い飛行船は、船尾が重くなり何度か船尾部のバラスト水を投下し、前部のガス嚢からガスを放出しなければならなかった。さらにトリム調整のために幾人かの乗組員を船首方向へ行かせた。高度60メートルで飛行船は地上支援員により繋留柱の前へ誘導された。着陸索が投下され、地上支援員によって繋留柱の索に繋ぎ合わされた。

繋留索を投下して2~3分後、突然激しい衝撃が飛行船を襲い、上部尾翼の部分から炎が吹き出し、数秒のうちに飛行船全体に拡がった。見物人と関係者は、いつものように飛行船の着陸を見ようと大勢集まっていたが、彼らはこの事故の目撃者となった。炎上する飛行船は、およそ60メートルの高さから墜落した。指令ゴンドラ、エンジンゴンドラ、それに乗客区画から人が飛び降り、飛行船は灼熱の桁と条材となって地上に落下した。32秒後に、飛行船はもはや煙につつまれた瓦礫の山となった。乗船していた97名のうち62名はこの生き地獄から救助され、その中には軽傷で済んだ人もいた。22名の乗務員と13名の乗客は火炎のなかで、あるいはそのひどい火傷で2~3時間後に亡くなった。エルンスト A.レーマンもそのうちの一人であった。またアメリカの地上支援員の一人も救助活動で命を失った。犠牲者の大多数は、着陸時点で飛行船の内部あるいは船首部にいた乗組員や、まだキャビンにいた乗客であった。

この大事故の原因については、今日まで多くの書籍や論文、それにドキュメントフィルムで検討されてきた。しかし、実際の状況が詳細まで明らかにされることは、おそらく永遠にないであろう。フーゴー・エッケナーおよびフリードリッヒスハーフェン飛行船工場の主任技師、ルートヴィヒ・デューアも、この炎上大惨事の調査委員会に直接召集された。この調査委員会はアメリカの調査委員会と共同で事故原因解明に務めた。

調査委員会の報告書では、事故の原因は可燃性の空気と水素の混合気が飛行船の船尾上部で静電気による放電で炎上したと見なしている。しかし今日まで、どうしてその混合気が生じたのか解明されていない。調査委員会は結論として炎上の原因を不運の連鎖だとし、最有力の説明として以下の可能性を挙げた。すなわち、着陸の間際に、4~5個のガス嚢が、切断した鋼索により損傷したおそれがあり、これにより生じたガス漏洩が、船尾の負担増加の原因となった可能性がある。さらにそれが原因となって船尾領域の拘束索がバタバタしていたのを目撃した人もいるが、それがガス漏洩を生じさせたのかもしれない。その結果、軽く引火しやすい水素・酸素混合気(爆鳴ガス)が生じた可能性がある。現在でも破壊活動行為による時限爆弾を原因とする噂が流通しているが、それを裏付ける如何なる徴候も見出すことは出来ない。最近、可燃性の外装塗料が炎上事故の原因となったという新説があるが、これも異論が多く、疑問が残る。

この大災害が与えたショックは、ツェッペリン運航史の突然の終焉として、今でも多くの人の記憶に焼き付けられており、また、ほとんどの人がツェッペリンの歴史と結びつける出来事となった。

この事故でドイツ・ツェッペリン史上、初めて民間人の生命が失われ、それは世界中で硬式飛行船を運航していた最後の国に対し、旅客用飛行船運航の終わりとするよう警鐘を鳴らした。危険な水素による旅客用飛行船運航の継続は、もはや絶対に考えられなかった。実際に旅客用飛行船の航行は、この大惨事のあと即座に中止された。飛行船LZ127「グラーフ・ツェッペリン」は、その事故の起きた時点には南米航路に就航していたが、その復路直後に任務を解かれ、2~3年フランクフルトの飛行船格納庫で博物館飛行船として置かれた。

飛行船運航が完全に終わるとは、ドイツではこの時点で誰も思わなかった。しかしながら、旅客用運航がヘリウム飛行船でしかできないことは明らかであった。不燃性のヘリウムガスは、当時原則として合衆国からドイツへ納入される可能性は残されていた。というのも、合衆国でも2隻の海軍飛行船、ZRS4「アクロン」とZRS5「メーコン」の消失により、硬式飛行船計画が終了となったからである。これに続き、再びアメリカ政府とヘリウム輸出に関する交渉が行われた。しかし、変化したドイツの政治情勢は妨げにしかならなかった。認可要請にアメリカ議会は拒絶の通知を行った結果、1938年9月14日に飛行船「LZ130」はまた水素で充填され、再び「グラーフ・ツェッペリン」という名で就航した。この飛行船はドイツ国内で少数回航行したが、1939年8月には戦争の危機が差し迫ったので運航停止させられた。最終的に、第二次世界大戦の勃発により、すべての飛行船基地およびLZ127とLZ130は解体された。建造中のLZ131はフランクフルトの2棟の飛行船格納庫と同様、1940年春に爆破された。

それとともに感銘の深い飛行船史の章は終わった。たとえ今日、フリードリッヒスハーフェンで新型ツェッペリンが建造され、壮大なボーデンゼーやアルゴイ上空の遊覧飛行を試みることが出来るとしても、大西洋上を旅客運航していた偉大な時代は永遠に過去のものとなった。しかし、巨人が人々に与えた魅力は今後とも忘れられることはない。

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