(1934年4月、建造中のLZ129の船体を船首に向いて見る。同書P20)
R101の事故のあと、水素を充填した旅客用飛行船は激しい非難に曝された。そのため、フリードリッヒスハーフェンでは1930年11月に水素飛行船LZ128プロジェクトの展開を中断し、その代わりに不燃性のヘリウムを用いディーゼルエンジンで駆動する新構想をLZ129として開発することを決めた。だが、ヘリウムは水素に較べて高価なだけでなく浮力が少なかった。新方式のガス装置により、この欠点を部分的に補う必要があった。水素気嚢とヘリウム気嚢を組み合わせ、後者が水素気嚢を外套のように完全に包む方式が用いられることになった。その結果、飛行船の設計は15万5千立方メートルから19万立方メートルに拡大された。
問題はヘリウムの輸送問題であった。すなわち、当時この不活性ガスを充分な量供給できる唯一の国は合衆国であった。合衆国海軍も大型飛行船を用いていたため、自らもヘリウムを必要とした。1927年から法律でヘリウムの輸出が禁止され、したがってエッケナーには拒絶の通達を行った。その上、LZ129プロジェクトのガス配置の組み合わせもまた依然として水素飛行船のリスクを免れなかった。LZ127「グラーフ・ツェッペリン」航行の大成功も、いまこの問題に直面して徐々に色あせつつあった。その結果、LZ129には最終的に水素が充填された。
こうした設計上の変更に加え、とりわけ資金調達の問題がLZ129の完成をたびたび遅延させた。世界経済危機は1931年に頂点に達し、投資家たちはドイツでもアメリカでも大西洋横断飛行船運航から手を引いた。
ツェッペリン飛行船製造有限会社の姉妹企業であるドルニエ金属工業社を1932年2月に、資金調達問題のために売却する可能性が出てきた。クラウド・ドルニエへの会社の売却で、ツェッペリン飛行船製造社は82万5千ライヒスマルクを見込んだ。だが、飛行船の資金運営は、1933年末、帝国航空省からツェッペリン工場に対し300万ライヒスマルクが無利子で貸し付けられたことにより、初めて確定した。しかし貸付の認可は、新しい運航会社を国家が参与して創設するという条件付きであった。その設立は1935年3月22日で、ドイツツェッペリン運航有限会社という名称で実現した。航空省はおよそ3分の1(345万ライヒスマルク)を出資した。そのほかはツェッペリン飛行船製造有限会社(570万ライヒスマルク)とルフトハンザ(40万ライヒスマルク)に割り当てられた。
国家がDZRに出資したのには、運航事業に対して影響力を獲得し、大衆に対して効果的なプロパガンダの目的でツェッペリンを利用するという国家社会主義政府の狙いがあったことは明らかである。しかしそのためには、コスモポリタンであり、とかく煩わしいフーゴー・エッケナーの影響を封じ込めることが必要であった。それまでエッケナーの手中にあった飛行船製造と運営事業は分割され、運航事業はDZRの所在地であるフランクフルト・アム・マインに移転された。エッケナーと長年にわたり飛行船長仲間であったエルンスト A.レーマンがDZRの役員に任命され、エッケナーには監督およびアドバイスを行うだけの理事長の地位が与えられた。国際的旅客飛行船運航構想の達成を目前にして断念したくなかったエッケナーには、この条件を受け入れる以外に選択肢はなかった。
DZRの設立によって飛行船運航は新たに浮揚した。LZ129は急いで建造され、1936年3月のはじめに完成した。その就航によって北大西洋航路は、ついに経済的にも魅力のあるサービスとなった。「ヒンデンブルク」型はさらに2隻が発注され、フランクフルト・アム・マインには、いくつかの飛行船格納庫を備えた、飛行機と飛行船のための基幹空港が整備された。
1931年1月初めに始まったLZ129の建造の際、ツェッペリン工場の設計者たちはいくつもの点で新しい分野に踏み込んだ。それは今までに建造されたことのない大きな飛行船であり、とりわけ船体構造に関して一連の変更が必要だったからである。硬式飛行船建造の根本方針は、積載能力の向上と同時に最小限の自重の実現であったが、それにより船体に極めて大きな負担がかかることは必至であった。ツェッペリン飛行船の全体形状は流線型の中空体で、鋼索を蜘蛛の巣状に張りつめた主リングと、鋼索のない補助リングを縦通材で接合しているが、LZ129の建造でもジュラルミン製の桁を基本構造要素とする三角断面の桁と同様に保持された。但し、Ω型断面の帯板のついた支柱の型と、穿孔されフランジを曲げ軽目孔をあけたガーダーが新たに開発された。さらに、より大きな負荷がかかるため、強度の材質が必要となり、初めは円筒の筒体を構成する際に問題となった。新規開発のガーダーの安定性と載荷能力は厳密な力学的実験によって検証された。大量の支柱、継ぎ手、側面帯のような部品の製造では、技術者によって極めて綿密な重量管理が行われた。すべての部品は、総重量を維持するために再度計量された。
その時期には乗客区画も計画されていたが、初めてツェッペリン飛行船の船体内部にその区画が配置されることになった。モデルキャビンによって、最小の重量で最大の快適さを可能とする区画の設置が検討された。その区画の内装デザインは、ブロイハウスのフリッツ・アウグストに依頼された。彼はベルリン市高等グラフィック専門学校、コンテンポラの校長であり、すでに外航汽船や飛行機、それに鉄道車輌の内装設計の経験も持っていた。だが、これまでには範例のない課題が持ち上がった。無くても済むもの、避けられるものをすべて放棄し、できるだけ軽量でかつ安定のある価値の高い内装家具、壁面の化粧仕上げ、フロアリングを備えた全く新しい様式を見つけることであった。軽金属製の家具と機能性を原則とするバウハウス様式の採用によって解決できた。
実際の飛行船の建造は1932年1月にリングと縦通材の製造によって始まった。完成した桁の部品がリングに組み立てられた。リングの寸法は直径40メートルという巨大なサイズになったので、それを格納庫の床に固定する必要があった。強度に乏しく歪みやすいリングを鉛直に立てるため、特別に補強した組み立てリングにそれらを接合する必要があった。その後、リングは正確に定められた間隔で格納庫の天井から吊り下げられ、縦通材と結合された。16個の主リングは菱形のトラス桁によってさらに補強され、鋼索で固定された。2本の主リングのあいだには鋼索のない2本の補助リングが配置された。このようにして16の区画が作られ、後にガス嚢の仕切りとなった。また、リング部分と縦通材で区切られたそれぞれの空間には鋼索が張り渡され、ガス嚢からの圧力を支持するためのラミー(苧麻)索が取り付けられた。このようにして船体は順次造られていった。1932年9月には既に一組の主リングと補助リングが完成し、格納庫の天井で連結されていた。ほかのリングは工事中であった。およそ一年半後、1933年から1934年に改まる頃、船尾部分を除く船体部分が完成した。
船体の組立は目眩を感じない工員で構成される高所組立グループの仕事とされた。船体の構造部材はすべて手作業で鋲接合された。「ヒンデンブルク」の建造には全体でおよそ5百万本の鋲が用いられたと言われているが、正確な本数は誰も知るものはいない。
船体の建造工程が終わると、すぐに内装仕上げが始まった。船体の通路が組み上がるとガス排気用ダクトの工事と、乗客および乗務員区画の配管工事と家具の取り付けが始まった。船首端と船尾キャップは別に組み立てられ、完成してから胴体に取り付けられ、操縦ゴンドラおよびエンジンゴンドラは船首下方あるいは船体側方に取り付けられた。最後に尾翼と舵が取り付けられた。
それと並行して外被製作担当者は、木綿と亜麻布の強度の異なる素材でできた外被の製造と取り付けを開始した。船体の建造と同様に外被の製作も手作業で行われた。最初に長さ数メートルの布地を工業用ミシンで縁かがりして、その四辺に刻印された外殻を船体に括りつけるための金属製の孔を取り付けた。外被製作担当は個別の外装テープで船体構造に紐で結わえ付けた。外被の個々のテープの取り付けと、外被と船体の括りつけも受け持った。そのあと外被に何度も外装用ラッカーであるセロンを塗った。このラッカーを塗る目的は、後に運航するとき、できるだけバタバタしないように布地をピンと張るためである。塗装にはアルミニューム粉末が混入され、その結果表面が典型的な銀色になった。美的には優れていたが、それはただ副次的効果であった。アルミニューム粉末を混入させる本来の目的は、外被に光を透過させず反射させることで、それによって浮揚ガスが暖まり難くし、光線を遮ることにより紫外線により外被を傷めないようにすることであった。
最後の作業工程はガス嚢にガスを充満させることで、何日も掛かる作業であった。飛行船建造の最終段階におけるDZR建造監督の変更要求ならびに幾つかの技術課題により、完工時期が1936年春まで延期された。だが1936年3月4日、新造飛行船は起案されて8年もの建造期間を経て遂に最初の試験飛行の準備が整った。