LZ127Profile

LZ129:ヒンデンブルク

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(1900年7月2日、マンツェルの湖岸で最初のツェッペリン飛行船を眺める子供達。同書P8)

Barbara Waibel著 LZ 129 HINDENBURG

I.旅客用飛行船運航への歩み

LZ129「ヒンデンブルク」は総計で119隻竣工したツェッペリン飛行船の第118隻目にあたる。1936年3月4日にフリードリッヒスハーフェンの建造用格納庫を出発して、硬式飛行船建造の新次元を開いた。大型飛行船発展の歴史は、それからおよそ40年前、ツェッペリン式飛行船第1号であるLZ1が、1900年7月2日に最初の航行に離陸したことで始まった。

19世紀後期の多くの技術者、発明家、技術的関心をもった素人がそうであったように、ヴュルテンブルクの将校であり外交官であったフルディナンド・ツェッペリン伯爵もまた飛行船の計画を行った。すでに1874年に飛行船に関する最初の構想が考案された。彼が軍役を引退したあとの1890年以降、計画が具体化された。その飛行船の計画は当時のほかの計画と異なり、リングと縦通材にアルミニュームの骨格を用い、それを外被で覆ってその中に複数の浮揚ガス嚢を収容するものであった。この基本原理は、1900年の最初の飛行船LZ1から1938年に竣工した最後の飛行船LZ130まで一貫して採用されていた。

ほとんどのツェッペリン飛行船はドイツの陸軍と海軍用として建造された。しかし、ツェッペリン伯爵は最初の飛行船の建造よりずっと前から、軍用飛行船とともに世界規模で旅客と郵便を輸送する航空運輸を考えていた。そして早くも1910年に、世界最初の航空運輸会社であるDELAGは旅客輸送を実施した。その飛行船は、船体中央部のキールの位置に、20~24名の乗客用座席を設けた旅客用ゴンドラが設けられた。開閉可能な大きな窓の傍で籐椅子に座り、小さなテーブルでスチュワードがサービスする冷たい料理と飲み物を味わうことが出来た。

DELAGは当時ドイツ国内で定期空路の運航はしていなかったが、ある程度の料金を支払ってでも魅力的な地域の景観を見下ろす遊覧飛行をしたいという、支払い能力のある乗客が充分にいた。ドイツの大都市の多くは、発着地となる飛行船格納庫を建設した。DELAG飛行船は、運航を開始してから第一次世界大戦までの4年間に、34028人の乗客を乗せたが、これは注目すべき数字である。しかしながら、このDELAGの運航はドイツ陸軍に飛行船の購入を促すための宣伝活動を主体としていた。つまり、ツェッペリン飛行船の初期の飛行で再三にわたり計画の障害となった多くの技術的な問題が生じ、グラーフ・ツェッペリンの硬式飛行船の性能を軍部に説得させるのにあまり適していなかったからである。

ツェッペリンの4隻目の飛行船が、多数の見物人の眼前で炎上したエヒターディンゲンの事故のあとに寄せられた数百万の義捐金によって、新しい企業を設立し、ボーデン湖畔のフリードリッヒスハーフェンに最新技術水準の工場を建設することができたが、飛行船製造工場は建造の注文がなければ存続不可能であった。DELAG飛行船の航行は大成功をおさめたが、その効果は期待に応えることが出来ず、第一次大戦を前にした緊張の雰囲気の中で、ついに軍当局から緊急の注文が舞い込んできた。

飛行船建造のピークは第一次世界大戦中の時期であった。完成した119隻のツェッペリン飛行船のうち、88隻が1914年から1918年までの期間に建造されている。しかし、ドイツだけでなくイギリス、フランス、イタリア、合衆国その他の地域でも、飛行船は軍事目的のために建造された。そのほとんどが軟式あるいはキール飛行船で、それらは積載能力と航続力が充分ではなかったため、主として沿岸の偵察飛行と艦隊護衛に用いられた。爆撃飛行にはほとんど例外なく硬式飛行船が投入された。それはその構造方式のゆえに、ほかのシステムに較べはるかに積載能力と航続力が突出していたからである。そのためにドイツの硬式飛行船のみがロンドン、パリその他の都市を爆撃したのである。積載能力、速度、上昇限度、航続距離など、飛行船の絶え間ない発展により、硬式飛行船は技術的観点から4年間で比較することの出来ないほど改良が施され、完成の域に到達した。長距離飛行の技術的前提条件も整った。大戦中に達成された実働運航における記録に基づいて、すでに1919年の春、ニューヨークまでの無寄航航行が計画されたが、ドイツ政府の許可が得られず実施されなかった。

戦後、フリードリッヒスハーフェンのツェッペリン飛行船製造社は大西洋横断航行用に、大型飛行船の建造を計画した。世界にまたがる航空輸送網の設置は、当時航空業界における重要な検討課題であった。この領域における市場占拠率の獲得をめぐって、全世界的に飛行機メーカーと飛行船メーカーが競い合った。ここでは、硬式飛行船建造の分野で技術的にリードしていたツェッペリン工場の可能性は卓越していた。多くの旅客用飛行船の構想が起案され、製図板上に展開された。しかし、その工場単独では、そのような大プロジェクトに対する事前の資金調達は負担できるものではなかった。国家的支援が必要であった。

飛行船による交通運輸に対して世間一般の関心を呼び起こしたのは、DELAGが1919年8月にフリードリッヒスハーフェンからベルリンまで、フリードリッヒスハーフェンのツェッペリン工場で建造した小型飛行船で同社として初めてとなる定期運航の開始を決定したことであった。「ボーデンゼー」と命名されたこの飛行船は、理想的な流線型に整形された船体の、小型かつ高速の飛行船であった。乗客用と操縦用のゴンドラは一体化され、船体下部に固着された。およそ15名の乗組員のほかに、24名の乗船客と郵便物および貨物を搭載することが出来た。スチュワードにより冷たい飲み物と暖かい飲み物、それに冷たい料理がサービスされた。

2日間ペースでの航行は、非常に好評で常時満席であったため、乗客を30名乗せることの出来る2隻目の旅客用飛行船LZ121「ノルトシュテルン」が建造された。しかし、この新造飛行船が就航することはなかった。1920年1月10日に、ヴェルサイユ条約が発効となり、その結果連合軍側はこれら2隻の飛行船の引き渡しを要求しただけでなく、フリードリッヒスハーフェンの工場を撤去させ、ドイツにおける飛行船の建造禁止を公布した。激しい競争を繰り広げる民間航空の市場から好ましくない相手を閉め出すことも狙いであった。

しかし、経験豊富な飛行船長であり長きにわたってツェッペリン伯爵の協力者で、ツェッペリン・コンツェルンの経営陣の代表になっていたフーゴー・エッケナーは、アメリカ海軍に賠償としての飛行船建造に関心をもたせることに成功した。その飛行船には建造番号LZ126が与えられ、硬式飛行船建造のあらゆる分野で最先端の革新が実現された。更に推進機関には、マイバッハ・エンジン製作所で新型エンジンが開発された。LZ126の建造により、工場の存続を一時的に確定することが出来た。しかし契約条件は、その飛行船を合衆国に移送して現地で引き渡さねばならないことであった。保証のリスクを誰も引き受けることができなかったので、エッケナーはすべてを投機し、即座にツェッペリン・コンツェルンの全資産を抵当とすることを申し出た。

1924年10月12日、フーゴー・エッケナーを指令として、合衆国へ移送するために離陸した。それは、イギリスのR34が初めて大西洋を横断して以来の非常に大胆な企てであった。しかし、LZ126は81時間の航行の後、ニューヨークの南に位置する新空港レークハーストに到着することが出来た。アメリカにおける歓迎は強烈であった。数千人の群衆が固唾をのんで飛行船の到着を待ち望み、熱烈に歓迎した。乗組員はニューヨークの有名な紙吹雪パレードのなかを自動車に分乗して、アメリカ大統領に謁見した。この移送でエッケナーは世界的に有名になり、飛行船が交通運輸機関として新たな関心を呼び起こした。

しかしフリードリッヒスハーフェンのツェッペリン工場はLZ126を引き渡したあと、さらにその事業を進展させるべきかどうかをめぐって新たな問題に直面した。エッケナーは依然として飛行船による世界的空路網を計画していた。それは当時、絶対に必要と渇望されていた国際的な航空ネットワークの目論見であった。すなわち、1920年代中期には航続距離、積載能力、快適さにおいて飛行船は飛行機に較べていまだ圧倒的に優位を占めていたからである。

したがって、エッケナーの計画の見通しは悪くなく、LZ126の移送に成功したことは計画達成のための重要な第一歩となった。しかし、会社の経営状況は芳しくなく、新しい飛行船を建造することは不可能で、国家からの融資も期待出来なかった。この状況においてフーゴー・エッケナーは1908年に起こったエヒターディンゲンの義捐金を準拠として、いわゆるツェッペリン・エッケナー義捐金の提案を行った。移送飛行船の乗組員を動員して、ドイツ国内を何ヶ月もかけて新造飛行船のための募金に出張講演を行った。この活動により、およそ220万ライヒスマルクを獲得することができた。この額に、ドイツ政府がさらに2百万ライヒスマルクを出資し、ヴェルサイユ条約の制約が廃棄された1926年以降、ついにLZ127の建造が始まった。

しかし新しい格納庫を建設するには、この金額では足りなかった。なぜなら、経済的に飛行船を運航するためには、LZ127よりも大型の飛行船、その結果さらに大きい格納庫が必要だったからである。したがって、フリードリッヒスハーフェンの工場で最大の建造用格納庫は、ガス容量10万5千立方メートル、乗客20名規模の飛行船一隻が入るだけの大きさに制限された。LZ127は、そういう事情で最終的に売り込みのためのデモンストレーションと、硬式飛行船の大西洋横断航空能力を証明するための世界規模の航空運送の実用試験用飛行船にならざるを得なかったのである。

1928年7月8日、1917年に亡くなったツェッペリン伯爵の生誕90周年記念日に、その娘であるヘラ・ブランデンシュタイン=ツェッペリン伯爵夫人によりLZ127は「グラーフ・ツェッペリン」と命名された。その飛行船は2ヶ月後、最初の試験飛行に離陸した。それは、その時点までに建造された最も成功し、最も有名な飛行船となった。LZ127「グラーフ・ツェッペリン」はその存在期間中に590回の航行を行い、その間におよそ170万キロメートルを航走し、1929年8月には世界一周飛行、1931年7月には北極探査飛行という、誰もまねの出来ない前代未聞の抜群の偉業を達成したほか、南米・北米を巡航する、いわゆる三角飛行を2度達成し、その他の外国へ記憶に残る遠征を行い、世界を圧倒した。1931年の夏、LZ127はドイツからブラジルへ乗客、郵便物、貨物を届ける初めての定期飛行を開始した。

LZ127「グラーフ・ツェッペリン」の輸送能力には限界があり、単一の航空機による経済的な運航の可能性は乏しいため、最初の運航に成功したあと間もなく建造番号LZ128として新造飛行船の計画が始まった。ガス容量15万5千立方メートルとLZ127の三分の一も大きいその飛行船は、第一にはより多くの乗客を輸送し、第二にはそれ相応の快適さを提供するためであった。乗船客の区画はより広く確保するために、この飛行船の船体内部に場所を移された。先行船と同様に水素ガス充填が計画された。

世界周航という素晴らしい実績を挙げたあとエッケナー博士は、フリードリッヒスハーフェンに2棟の新しい格納庫を建設するために国家から財政支援を得た。それに加えて、独米ツェッペリン運輸会社の設立に関する協議も行われた。その計画によればヨーロッパと北アメリカを4隻の飛行船により定期運航を行い、そのうちの2隻は合衆国のグッドイヤー・ツェッペリン会社で、残り2隻はフリードリッヒスハーフェンのツェッペリン工場で建造されることになった。ドイツの飛行船の資金調達はツェッペリン飛行船製造社とドイツの銀行筋、産業界、海運会社からなる投資グループによることになった。

北米への連絡運航は経済的に特別な関心を集めた。何故ならば、その航路に見込まれる船客数はますます増大し、とりわけ支払い能力のあるファーストクラスの乗客は、「モーレタニア」や「ブレーメン」のような、高速かつ快適な豪華ライナーに喜んで出費したからである。エッケナーが新しい飛行船の対象として狙ったのはまさにこの客層であった。

その頃、イギリス人たちは飛行船による長距離運航の計画を推進していた。彼らはそれによってカナダ、エジプト、南アフリカ、インド、オーストラリアなど大英帝国の諸国を連絡する交通運輸を目論んでいたのである。この目的のために英国政府は1924年に、LZ128とほぼ同じサイズの2隻の硬式飛行船を発注した。その2隻のイギリスの飛行船、R100とR101は1929年末に初飛行を行った。フリードリッヒスハーフェンのツェッペリン飛行船製造社にとって、これは大きなライバルとなった。

R100は長さ216メートル、直径40.5メートル、ガス容量14万1千5百立方メートルであった。6基の12気筒エンジンにより、毎時130キロメートルの速度を達成することができた。その飛行船は100名の乗客、50名の乗組員、手荷物、郵便物、貨物を搭載することが出来た。乗客の居住区は飛行船として初めて船体内部に設けられ、3層の区画に乗組員とともに宿泊することが出来た。両舷の大きな展望窓からは壮大な景観を眺めることが出来た。豪華なダイニングは中段デッキに配置され2層吹き抜けで、そのまわりには歩廊がめぐらされていた。

その飛行船は1930年の夏、カナダへの長距離航行でその有用性を証明した。7月29日に、およそ79時間で北大西洋を横断した。モントリオールの近くに着陸したあと、カナダの来賓を乗せてオタワ、ナイアガラ瀑布、トロント、キングストン上空の遊覧飛行を行った。8月14日にイギリスに向けて復航に出発し、57時間半で帰航した。

カーディントンの国営飛行船工場で建造され、1929年10月14日に初飛行を行ったR101は、先行船に較べて成功したとは言えなかった。当局の要請で、たび重なる構造設計の変更や技術的改良が必要であった。しかしながら、その飛行船の基本的な問題は重量が重すぎることであった。その問題の対策として、飛行船の船体を延長し、ガス嚢を追設しなければならなかった。重量節減のために、ガス嚢を所定の位置に保持しておく索網を取り外さねばならなかった。その変更のため1930年10月1日の試験飛行の際、重大な結果を招くことになった。すなわち、変動しやすいガス嚢をリングの所定の位置に固定することが出来ず、ガーダーと摩擦することにより擦り傷をつけてしまったのである。それが原因で生じたガスの流出により、安定が失われ飛行船の操縦性に重大な影響をもたらした。傾斜角が3度になると自動的に圧力調整弁が解放され、その結果飛行船は激しくローリングし、常にガスが放出され揚力が失われたことにより、問題はさらに増大した。

それにもかかわらずR101は、その後間もなく1930年10月4日に、54名を乗船させてエジプト、インドに向けて航行を開始した。英国の航空大臣であるトムソン卿は、政治的、個人的な理由により、10月13日までにインドに到着することを公言し、それの遅れるわけに行かなかった。その航行は離陸の2、3時間後には早くも阿鼻叫喚となった。飛行船の重量はますます増加し、ボーヴェの近くの丘に激突し、炎上したのである。この大惨事で一命をとりとめたのはわずか6名で、他は -トムソン卿を含めて- 全員が塵芥に帰した。この事故でイギリスの飛行船航行の歴史は終焉した。R100も再び航行のために浮揚することはなかった。ガスを抜かれ、解体されてしまったのである。その結果、世界で硬式飛行船を建造するのは2ヵ国だけになった。軍事目的で海軍に硬式飛行船を投入した合衆国と、フリードリッヒスハーフェンに2棟の大型格納庫の建設ならびに、LZ128プロジェクトとともに、飛行船の民間活用のための最初の一歩を踏み出したドイツである。

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