(表紙)
「ドイチュラント」は、大戦前のDelag飛行船がそうであったように、乗客用キャビンは飛行船の中央に取り付けられていた。
これに対して大戦後の飛行船では全般的に船首部分の下に配置されていた。
当時の船内の様子は、かなり目的に合致した、しっかりした造りになっていた。
第19図に「ドイチュラント」の内装を示す。
[第19図:旅客用飛行船「ドイッチュラント」の乗客キャビン、1909年]
「Delag」の課題は重大で、設立当初には大きな損失を出し、一時的に航空運輸の継続への信頼を揺さぶることになった。
しかし、「Delag」の大きな功績はその後の航行で、有用性に対する「ツェッペリン」飛行船の優位性を確実なものとした。
擱座した「ドイチュラント」の残骸から、Delag2隻目の飛行船である「LZ8:ドイチュラントⅡ」が建造された(第20図)。
[第20図:航行中の旅客用飛行船「ドイチュラントⅡ」、1911年]
その要目は「LZ7」とほぼ同じであった。
この飛行船の就航の出だしも、あまり期待させるようなものではなかった。
最初の出航の際、デュッセルドルフの格納庫に当たり、それを修復するために10日を要した。2~3週間後の1911年5月16日に、その飛行船が出発する際に格納庫の壁にとてもひどく押しつけられ、その結果解体を余儀なくされた。
[第21図:デュッセルドルフにおける「ドイチュラントⅡ」の事故、1910年]
第21図は、突風により格納庫の屋根に強く引っ掛けられて、飛行船が擁壁にぶつかった状態を示す。乗客は消防梯子でよじ降りねばならなかった。この事故によって人々の間に失望が広がり、報道の反目は非常に厳しいものとなった。
伯爵の同僚たちの気分も、改めて強化することが必要になった。
しかし当初のショックがおさまり、落ち着いて惨事の原因を調査したとき、事故の原因が飛行船にではなく、気象学上あまり有利でない場所に位置する格納庫の構造にあることが判ったのである。
この時から格納庫に関する課題には特別な注意が払われるようになった。この結果「Delag」は改めて新形式飛行船での挑戦に踏み切った。それは最後の切り札であった。それが失敗すれば、「Delag」が存続できないばかりか、飛行船製造自体もなり立って行かなかったであろう。
「LZ10」の建造が始まり、それは「シュヴァーベン」と名付けられた。
1910年6月26日、飛行船は最初の航行に出た。趣のある第22図はフリードリッヒスハーフェンに着陸しようとする「シュヴァーベン」であるが、船尾端に昇降舵と方向舵をそれぞれ4枚ずつ配置した新形式の採用を確認することが出来る。
[第22図:旅客用飛行船「シュヴァーベン」、1911年]
[第23図:旅客用飛行船「シュヴァーベン」操縦ゴンドラ上のツェッペリン伯爵とエッケナー博士]
第23図は「シュヴァーベン」船上のツェッペリン伯爵と指揮を執るエッケナー博士を示す。
その飛行船は、ガス容量17800立方メートル、長さ140メートル、積載荷重7000キログラムであった。
「シュヴァーベン」は、それぞれ145馬力のマイバッハ・エンジンを3基搭載した最初の飛行船であった。
速度が増大し、操縦はさらに容易に、つまり操縦幅に応じて軽快に反応出来るようになり、エンジンの信頼性は飛躍的に向上した。
「シュヴァーベン」は前部昇降舵を廃止した最初の飛行船であり、ドーア工学修士の指揮により、その優秀さが実証された幸運な飛行船であった。
運航初年に無事故で130航行を実施し、フィアヴァルトシュテッター湖からハンブルクまで、またベルリンからデュッセルドルフまで航行した。
こうして、欠陥はまた解消され、この飛行船の成功はそれまでの懸念を一掃した。
1912年6月28日に480時間、27123キロメートルにわたって4354人の乗客を乗せた234回目の航行のあと「シュヴァーベン」がデュッセルドルフの着陸点に繋留する前に炎上した時でさえも(第24図)、この失敗は、ツェッペリン飛行船への信頼性とその将来を忽せにはしなかった。に
[第24図:「シュヴァーベン」の終焉、1912年]
「シュヴァーベン」の成功は、当時のプロイセン陸軍省に決定的な影響を与え、陸軍飛行船が工場に発注された。
「シュヴァーベン」の業績に自信を取り戻した「Delag」は、そのころ別の旅客用飛行船を発注し、1912年2月に完成したその飛行船は「ヴィクトリア・ルイゼ」と命名された。
その飛行船のガス容量は18700立方メートル、その長さは148メートル、直径は14メートルであった。
それぞれ出力150馬力の3基のマイバッハ・エンジンが搭載されていた。
2月中旬にその飛行船はフランクフルトa.M.に移ったが、その間にそこには最新式装備の整備場付き格納庫が建設されていた。
「ヴィクトリア・ルイゼ」も優秀な飛行船としてその実力が認められた。
489回の航行のあいだに、その飛行船は54312キロメートルを航行し、9738人を乗船させた。