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コラム:「ツェッペリン」という名の水上艦船

汽船「ツェッペリン」

SSZeppelin

ツェッペリン伯爵はドイツの偉人であった。

当時、ドイツにはHAPAG(Hamburg-Amerika Linie,Hamburg)とNDL(Norddeutscher Lloyd,Bremen)という2大海運会社があり、20世紀初頭にはキュナードなどイギリスの海運会社が保持していたブルーリボン(北大西洋横断速度記録)を「カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ」(NDL)、「ドイッチュラント」(HAPAG)、「クロンプリンツ・ヴィルヘルム」(NDL)、「カイザー・ヴィルヘルム2世」(NDL)、「オイローパ」(NDL)、「ブレーメン」(NDL)などが破り、意気軒昂たるものがあった。

1914年にブレーメンのブレーマー・フルカンで14588総トンの客船がNDLの「ツェッペリン」という予定船名のもとに起工された。

しかし、第一次世界大戦により建造工事は中止となり、1919年には敗戦によりイギリス政府が取得し、オリエントラインが運航することになった。翌年オリエントラインが購入し「オルムズ」と改名され工事は続行された。

1921年12月11日、竣工した「オルムズ」はロンドン・オーストラリア航路に就航した。

1927年にNDLに売却され「ドレスデン」と改名されて北大西洋でクルーズ専用船となった。

1934年6月20日、ノルウエー・クルーズの途中「ドレスデン」は座礁してしまった。ボクナフィヨルドで船底を損傷し、自ら近くの浜に乗り上げて約千人の乗客を上陸させたが、死者4名を出し翌日横転して全損となった。

この船の場合も船名が「ツェッペリン」でなくて良かったと思う。ドイツではワイマール政権下で再建ドイツ海軍の主力艦として排水量1万トンの制約のもとに装甲艦を3隻建造した。「ドイッチュラント」、「アドミラル・シェーア」、「アドミラル・グラーフ・シュペー」の3隻である。しかし、この1番艦はのちに「リュッツォウ」と改名された。「ドイッチュラント」が沈没したら全軍の士気にかかわると考えられたからである。3番艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」は1939年に南大西洋で通商破壊作戦に従事中、イギリスの巡洋艦群に追いつめられてモンテヴィデオ沖のラプラタ川で自沈し、戦後製作された映画をご記憶の方もいると思う。

航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」

CVGrafZeppelin

もう1隻は未成空母「グラーフ・ツェッペリン」である。

ドイツはヨーロッパにあり、地中海のイタリアなどと共に戦争が始まれば、それは近隣国とのあいだのことであり、基地を飛び立てば前線はすぐそこである。従って戦闘機も爆撃機も長大な航続距離は要求されなかったし、航空母艦の必要性も日米、それに世界中に植民地を持つイギリスに較べて低かった。

太平洋戦争の初頭、台南航空隊の戦闘機部隊がバシー海峡、バリンタン海峡を越えてフィリピンの米軍基地を攻撃し、空戦ののち台南・高雄に帰投するなどとても信じられる話ではなかった。攻撃を受けた米海軍は終戦後の調査委員会で説明を聞いても信じなかったという。

第一次世界大戦で東アフリカ、青島、太平洋諸島を失ったドイツは、しかし次の戦争は地球規模になると推測し、1935年からの軍備計画(Z計画)には満載排水量33550トン、全長262.5mの空母4隻の建造が組み込まれていた。

1番艦「航空母艦A(Flugzeugträger A)」は1935年11月にキールのドイッチェ・ヴェルケ造船所に発注され、1936年12月に起工、1938年12月の進水式で「グラーフ・ツェッペリン」と命名された。

「グラーフ・ツェッペリン」の装備上の特徴は艦首に設けられた2基の蒸気カタパルトで、中央リフトから前部リフトを通ってカタパルトまで軌条が設置されていた。火器は15センチ砲16門、10.5センチ砲12門と空母にしては重装備であった。

しかし、開戦によって工事は滞り1943年に進捗率95%で建造中止となり、1945年4月に船体はシュテッチンに曳航されて着底させられたという。

終戦後、ソ連がレニングラードのドックに入渠させ、「PO-101」としてソ連海軍に編入されたが未成のままバルト海で標的として沈められた。その残骸は2006年7月にポーランド沖の海底で発見されている。

ちなみに、2番艦の艦名には第一次大戦のドイツ海軍飛行船隊司令であったシュトラッサー少佐に因んで「ペーター・シュトラッサー」が予定されていた。

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