飛行船を運航しない冬の期間を利用して飛行船をオーバーホールして、少し改造を行った。
3月25日から28日まで、オリエント航行を実施したが、もちろん船室は満室であった。
ローヌ渓谷を下って、コルシカ島のそばを通って、イタリアの長靴の大きな指先に行った。
それから、既に春の到来していたクレタ島上空に到達するのを待ち望んだ。
しかし、そこでは雪を戴いた高い山から冬のような冷たい風が吹き下ろしていた。
パレスチナに近づいてやっと暖かくなった。
我々は「高いところに築かれた」エルサレムに渡ったが、上空からはそれほど高くは見えなかった。
その街の上空を廻ったあと、上空の月を見上げながら死海のほうへと下っていった。
我々はそこで珍しい記録を樹立した。死海は海面下208メートルにある。我々はその上空70メートルまで降りて、当時の潜水艦の潜航深度記録を更新したのである。
コックはこの出来事にふさわしい祝宴を用意した。パレスチナの海岸を離れてから、シュヴァルツヴァルトの新鮮なニジマスがテーブルに運ばれた。
エジプトに寄り道するのに都合の良いチャンスであった。
そこではしばらくの間、強い強風が吹いていた。
エッケナーは電信を発信したが、イギリス政府は悪天候のためそこに行くことを推奨できないと返信してきた。
政治的ないざこざを起こすことは望ましくないのでアテネに向かった。
日の出の最初の光芒に華麗なアクロポリス宮殿が青天に煌めいた。
残念ながら我々は当初予定していたコンスタンチノープル訪問も断念した。これは本当に悪天候のせいであった。
それでパトリス湾のコリント運河の上空に行った。
それからイタスカを訪ねた。我々がよく知っているオデュッセウスの故郷の島であり、アドリア海岸の山岳に古い街が、岩山にツバメが巣を作ったように貼り付いていた。
夕暮れ前にスプリトに行き、そこから内陸に向かいハンガリーのプラッテンゼー(註:バラトン湖)に到達した。
その当時の地図製作者は、ヨーロッパですらまだ精確に認識し表示していないところもあった。
手元の地図は正確でなく、我々は地図に表示している渓谷に居るのかどうか気掛かりであった。高い山岳が目の前に立ちはだかっていたからである。
しかし、そのまま航走を続け、小さな川があったので正しいと確認することが出来た。
ウィーン上空を飛びドナウをたどって帰航した。
我々は山岳地方へのとても美しい飛行船航行を行った。
ウィーン、ザルツカマーグートとグラーツを訪れた。素晴らしいいくつかの渓谷をゆっくりと航行した。傍には丘陵があり、眼下には湖水が様々な色を呈していた。
そこでとても良い景観を鑑賞したが、一抹の不安を抱かせる雲片も漂っていた。当然ながら、いつもそうであったわけではない。
西地中海を往くある航行で、エンジンが停止した。エンジンとプロペラを連結する回転軸に亀裂を生じたのである。
そのときは予備の軸に交換して航行したのであるが、さらに飛行中にプロペラが脱落したのである。
そのとき乗客は昼食を摂っていたので、修繕をすることは出来なかった。
それは我々にとって2度目のアメリカへの航行での出来事の凶兆であった。
5月16日に出発して、ボーデンゼー上空で朝食を摂り、ローヌ渓谷でミストラルの追い風を受け、昼食時にはもう地中海上空に達していた。その速度は新記録であった。
午後、遅くなって1基のエンジンが停止した。
手元に届いている気象通報によれば天候は悪くなることはないと判断し、エッケナーは4基のエンジンで航行を続行することに決めた。我々は船上で修理を行う可能性もあるので選りすぐりの機械技術者を乗船させており、エンジンは復旧させられるに違いないと思っていた。
だが、夕刻近く2台目のエンジンが不安定になってきた。それでエッケナー博士は飛行船を母港へ変心させた。その間に、最初に故障したエンジンが船上では修理出来ないことが判った。
5基のエンジンのうちの3基でゆっくりと北に向かった。ミストラルが我々の行く手を妨げていたのである。ツェッペリンは貨物船のようにのろのろと前進を続けた。リオン湾を跨いで戻るのにまるまる一晩掛かった。
そこからローヌ渓谷に進むとミストラルが非常に強い向かい風となり、1メートル毎前進し、しばしば同じところに留まる始末であった。
朝食時に、習慣となっていた内陸湖「エタング」を観察した。フラミンゴの群れが飛行船の下の葦の茂みから驚いて飛び立ち、風に向かって飛来するのがわかった。
我々の航行速度は歩行者と同じくらいに下がり、小さな自動車も我々より速かった。
昼頃ドローム川の上流へ溯っていた。燃料は充分にあり、北に向かうのが良いと思った。まずヴァランスの高地に行き、そこからジュネーブの方に向きを変えればよい。
家々が鈍く光っているのが見え、それでさらに航行速度が落ちていることがわかった。そのとき、順風の飛行船の外からザワザワと弱い音がした!何だろう?残念、またエンジンが停止した!
我々は残った3基のうちのどれか確かめることが出来なかった。さらに悲報が届いた。また第4のエンジンが沈黙した。1分以内に2基のエンジンが停止したのである。
まだ1基のエンジンが作動しているが、とても向かい風に立ち向かうことは出来ず帰航を続けることは出来なくなった。
我々は風が弱まることを期待して、1基のエンジンで東へ回避して航走を続けようと試みた。風はいくらか弱まったけれども、まだ突風が吹いていた。それでエッケナー博士はドローム渓谷上流域で不時着することを決心した。
彼は飛行船を地上で支援する人達の助けを借りず着地させ、出来れば立木に固定したいと思った。それで渓谷のなかで充分な広さがあり、風上側に立木のある着陸地点を探した。
その間に地上では我々の航行を追従し、支援できるすべての可能性を探索していた。
フランス当局は我々の着陸を危険に曝す可能性のあるすべての電源を停止させた。軍は我々の救助のために非常招集をかけた。
フランス航空省は我々に2つのフランス飛行船基地に着陸を許可すると申し出てくれた。パリ近郊のオルリーは遠くて到達することが出来なかったが、地中海岸、ツーロンの傍にあるクール=ピエールフーは利用できそうであった。エッケナーはそこに向かう決心をした。
だが、その渓谷は飛行船が向きを変えるには狭かった。我々はちょっとした航行でも方向転換のための大きな旋回圏が必要であった。しかし、突風が吹くので飛行船は上空で尾根を超えた。
そこから、また風によってローヌを下り、我々の着地の時間が迫ってきた。すでにそこには、およそ40人が待機しており、エッケナーが接地を成功させ、飛行船は保持された。
我々はホッとした。第5エンジンももう機能しておらず、自由気球のようにどこかに着地せざるを得ないと思っていたからである。
我々の飛行船は、どう頑張ってももう浮揚することは出来そうになかった。
しかし、何とか格納庫に収容することは出来た。乗客は下船し、我々は新しいエンジンの到着を待った。
格納庫の扉が飛行船の船尾で閉じると緊張が緩んだ。我々は「グラーフ」の寸法が格納庫に合うかどうか最後まで心配していた。
これは以前にデュッセルドルフの格納庫であったが、ヴェルサイユ条約により解体されて、ここに幾分延長増高されて再建されたものであった。そして、かつてのドイツ海軍飛行船「L72」の後身である「ディズミュード」に合わせられたものである。だが、我々は早急に精確な情報を入手することができた。そして、フランスに対する訓練の実施は容易なことではなかった。しかし、ツーロンに乗り入れる操船を行ったとき、自動車でやってきた部隊は何か難しいことを実施する場合でも非の打ち所のないほどうまくやり遂げることが出来た。
こうして、ようやく一段落した。乗客は自動車でツーロンのホテルに行き、そこから出発し、エッケナーは乗組員全員を飛行船のサロンに呼んだ。我々は座って、ユーモアを交えながら悪くないワインを楽しんだ。
本当に原動力の80パーセントにあたるエンジンが故障したにもかかわらず空港に到達したというので、気分は最高潮に達していた。
そこに全く予期しないフランスの郵便物が届いた。エッケナー博士にドイツ大使館の代理人にするというものであった。
クール=ピエールフーが我々を受け入れてくれたことに関してはたいへん賞賛された。
我々は飛行船発着場のメンバーに非常に手厚くもてなして貰った。
ドイツに対する敵愾心などはその痕跡も感じられず、まるでその反対であった。我々はすぐに知り合いとなった。
そこには「ディズミュード」の記念碑があった。
レーマン船長は、そのフランス人の仲間に花環を供えた。
6日後に新エンジンが搭載され、我々はこの施設に暇乞いをするのが本当に残念であった。
きれいな月光の照らす夜、またローヌ渓谷を上った。5月24日の朝、「グラーフ」はルツェルン湖を通過した。
我々は眠っている村を何の前ぶれもなくエンジンのうなりを響かせて通ったことを何も覚えていない。
しかし数日後、エッケナー博士は一通の手紙を受け取った。
そこには当局の高官である筆者から、夜中に飛行船のエンジン音が響いたので、臨月間近の夫人が吃驚し、娘が生まれたと記されていた。
彼はエッケナーに、小さな「ツェッペリン」の名親としての責任を共有するように依頼していた。
エッケナーは、航海日誌の記載によりその時刻が一致するのでその責任を認めると返信を出した。
こうして、フリードリッヒスハーフェンで、希望にあふれた未来の象徴として、小さなツェッペリンの洗礼が行われた。