LZ127profile

コラム:世界周航で運賃を支払った2人の乗客は?

Weltfahrt1


航空史上最もよく知られている航空機は「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」で、その数多い飛行の中でも一番有名な飛行が1929年の世界周航である。

「LZ127」は1928年7月8日に伯爵の一人娘であるブランデンシュタイン・ツェッペリン伯爵夫人によって「グラーフ・ツェッペリン」と命名され、残工事を終えて9月18日にドイツ国内から北海にかけて初飛行している。

10月10日に予定されていた初めてのアメリカまでの渡洋飛行を悪天候のため一日延期して11日の午前8時に離陸してレークハーストへ向かった。
このときは航空省の代表4名、ヴィーガント氏やドラモンド・ヘイ女史などジャーナリスト6名のほか有料の一般乗客10名を乗せていた。

アゾレス諸島を過ぎたあたりから暴風雨に遭遇し、船首が15度以上の角度で持ち上がり、朝食の用意をしていたテーブルの食器類が落ちて砕け、フライパンやヤカンが床を走ってドアに衝突し、船内は水浸しとなった。
左舷の水平尾翼の外被が裂け、エッケナー博士の子息クヌート、ラドヴィック、ザムトの各操舵手とガス嚢主任のクノールが船外に出て数時間外被の補修にあたっている。

復航もニューファンドランド周辺で大時化に遭い、自船位置を失いやっとのことで帰国している。
このときの時化については、非常に特異でその後幾度も気象学者が討議を重ねたという。
ツェッペリン社にしても北大西洋横断は賠償飛行船「LZ126:ZRⅢ(米海軍に引き渡し後、ロサンゼルスと命名)」の移送に次いで2度目のことで運航に自信の持てる状況ではなかった筈である。

それだけではない。
翌年5月16日に出発した2回目のアメリカ行きは、スペイン上空で第2エンジンのクランク軸が折れてフランスに不時着している。

こんな状況で、それから3ヶ月も経たないうちに世界一周飛行を決行しているのである。

飛行機はその5年前に初めての世界一周飛行を行っている。
アメリカ陸軍の複座機ダグラス・ワールドクルーザーであった。
しかしながら4機で出発して、途中2機を失い、所要日数で176日、実飛行時間371時間7分というひどい状況であった。とても自慢できた内容ではなかった。
グラーフ・ツェッペリンの前に単機で世界周航した飛行機は皆無である。

エッケナー博士の著書によれば、自分達が世界周航を計画していたときに、アメリカのハースト新聞から全世界に対する独占報道権の見返りに15万ドルを提案してきたことになっている。

しかし、ザムトの口述筆記をまとめた書籍には「1929年はじめ、アメリカのハースト新聞が、エッケナー博士に飛行船で世界を周航するという提案を持ちかけた。飛行船の信頼性と可能性を世界にむけて実証するために、我々はその提案を喜んで受け入れた。」と述べられている。

私はザムトの記述の方が正しいのではないかと思っている。

ツェッペリンではこの飛行に25万ドルの経費を見込んでいたが、その大部分は霞ヶ浦での浮揚ガスと燃料ガスの補充であった。

ハースト新聞との交渉で、イギリスを除くヨーロッパを独占権から除外することでハーストは金額を10万ドルに減額した。

ドイツのシェルル出版、ウルシュタイン出版、フランクフルト新聞が3社共同でその一部を負担し、フランスのル・マタンや日本の朝日、毎日なども分担し、不足分は郵趣家を期待して特別な航空郵便料金を設定している。

乗船客の料金は世界一周で2500ドルと設定された。旅客定員20名であるから乗船費用として総額5万ドルになる。

しかし、このとき乗船したのは通過各国の政府代表1~2名と報道関係者が多く、実際に乗船費用を支払って乗船したのは2名であったとされている。

1人はアメリカ大富豪の遺産相続人、ウィリアム・リーズ氏であるが、もう1人は誰だったのだろう?

私はスイスの退役軍人クリストフ・イゼリン氏ではないかと思っている。
彼はスイス陸軍を退役した後、チューリヒで工場経営者となっていたのである。


エッケナー博士は「飛行船で、人は飛行するのではなく航海するのだ。」と言っている。
ラウンジがあり、ダイニングがあり(グラーフ・ツェッペリンの場合、兼用であったが)、乗船から下船まで個室が提供され、厨房ではツェッペエリン飛行船の紋章入りの食器で3度の食事を準備していた。
ティータイムもあり、ワインメニューも印刷され積み込まれていた。
世界周航のときは退屈なシベリア上空を飛行しているときに蓄音機のジャズとカクテルでダンスパーティも実施されている。
勿論、このときの主役はグレース・ドラモンド・ヘイ女史であった。

飛行船は、自動車などのような短区間の移動手段ではなく航洋客船と同じように快適な生活の出来る環境であった。

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