クラインハインス教授の「LZ-120:ボーデンゼーとLZ121:ノルトシュテルン」を読んでいると、かねてから確認したかったことが幾つか説明されている。
以前から、旅客用硬式飛行船は「LZ-120:ボーデンゼー」がその原型であると思っていた。
第一次大戦後、連合国側がドイツの飛行船を新たに建造することを制限しようと検討していた時期に、その制限に掛からないように小型にまとめ、ツェッペリン飛行船製造社手持ちの資材で、急いで建造されたものである。
新造飛行船の大きさの上限が3万立方mに決まったあと、2万立方mから22500立方mに延長工事を行って、後続船「LZ-121:ノルトシュテルン」は拡張後の「LZ-120」と同型として建造された。
しかし結局、敗戦後 飛行船を途絶させてはならないと飛行船製造社が自力で建造し、国内で輝かしい実績を残した「LZ-120」も、北欧との定期便を開設しようと建造された同型船「LZ-121」も後述のように戦時賠償船の身代わりとして、イタリアとフランスに乗組員の手で届けなければならなかった。
「LZ-122」「LZ-123」は協議中であったヴェルサイユ条約が調印された結果、膨大な戦時賠償金や 船舶、飛行船、格納庫などの引き渡し要求と同じ頃、連合軍からの中止命令で建造中止になったものと思われる。
この2隻が「LZ-120」型であったのか、別の設計であったのかはよく判らない。
この頃、12基のマイバッハエンジンを搭載して10個のプロペラを駆動する幻の旅客用飛行船「LZ-125:(仮称アメリカ船)」が計画されていた。
グッドイヤー社からフリードリッヒスハーフェンのツェッペリン飛行船製造社に派遣されていたハロルド・ディック氏の著書によれば「アメリカ船」として、郵便兼高速貨物船とステートルーム付きの大型ゴンドラを設けた旅客船の2形式が設計されていたという。
郵便船の方にも旅客用キャビンが設けられていたが、それは操縦ゴンドラの上の船体にあったと記述されているので「LZ-129:ヒンデンブルク」と似た形式だったのかも知れない。
私は、その郵便兼高速貨物船型が「LZ-124」で、旅客型が「LZ-125」だったのではないかと思っている。
クラインハインス教授は、この2隻を同じような認識で扱っている感じで、どちらが郵便船で、どちらが旅客船という区別はしておらず、「LZ-125」、アメリカ船あるいは郵便船のような表現を使っている。
1920年にはツェッペリン社が、アメリカ海軍向けに新造飛行船を作るかどうかの検討が始まった。
戦勝国側に引き渡す軍用飛行船を維持・管理していたドイツ海軍の要員が破壊してしまい、その代償として「LZ-120」がイタリアに、「LZ-121」がフランスに引き渡されることになり、アメリカには80万ドルの賠償金が支払われることになった。
その交渉で、エッケナー博士たちは80万ドルの賠償金の代わりに大型飛行船を新造して米海軍に納入するという提案を行い、これが受け入れられたのである。
しかし、軍用飛行船の建造はヴェルサイユ条約で堅く禁じられていた。
それで大型旅客用飛行船として「LZ-126:ZRⅢ」が建造されることになったのである。
この7万立方mの大型旅客船で「LZ-120」で試みた新機能を拡張展開し、渡洋飛行船としてレークハーストまで納入することに成功した。
この飛行船では乗客用設備はあったものの個室キャビンは設けておらず、夜はベッドにカーテンを引くだけであった。
この建造のあと、新造飛行船の大きさの制限が撤廃された。
エッケナー博士は「LZ-4」がエヒターディンゲンで炎上したあと全国から寄せられた義捐金のように新造飛行船の建造資金を得ようとして関係者と国内を演説して回った。
博士の著書によると、講演回数は100回を越えたという。
しかし、その基金と政府の補助金では本格的大陸間旅客用飛行船を建造することは出来ず、デモンストレーションと調査を目的としたプロトタイプとして「LZ-127」が建造され、グラーフ・ツェッペリンと命名された。
「LZ-120:ボーデンゼー」が最初の国内用旅客船、「LZ-126:ZRⅢ(ロサンゼルス)」が大西洋を横断することの出来る大型実験船とするならば「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」は国際航路用実用実験船として誕生したのである。
程なく、これを拡張した「LZ-128」が設計された。
しかし、この飛行船が建造されることはなかった。
水素ガスに代わる浮揚ガスとして、アメリカで不活性ガス、ヘリウムが実用化され「LZ-126:ZRⅢ」にも適用されていたので、安全なヘリウム船として「LZ-129」が建造されたからである。
しかし、硬式飛行船の軍事使用を警戒したアメリカはヘリウムの輸出を認めず「LZ-129:ヒンデンブルク」は結局、水素船として完成した。
ヘリウム船として建造された「LZ-129」に水素を充填することになり、その浮力差をコンペンセートするために重いピアノが固定バラスト代わりに搭載されたのである。
レークハーストの大惨事のあと「LZ-129」の同型船「LZー130:グラーフ・ツェッペリン(Ⅱ)」には合衆国議会でヘリウムの輸出が承認されたが国務長官イッキーズがこれを認めず、乗客定員を減らしてヘリウム船として設計を変更したが、結局水素船として完成し、旅客運送に用いられることはなかった。
ドイツで2隻保有し、アメリカに2隻運航させて、大々的に大西洋横断定期航路を運用する計画であったが、「LZ-127:グラーフ・ツェッペリン」世界一周飛行の直後に起きた世界大恐慌でこの計画も立ち消えとなり「LZ-129:ヒンデンブルク」の惨事のあと、建造中であった「LZ-131」は解体されてしまった。
「LZ-120:ボーデンゼー」は、本格的旅客用飛行船の原型である。
クラインハインス教授は、次のように「LZ-120」のことを評価している。
クラインハインス教授はさらに、イタリアに引き渡されエスペリアとなった後のことも、ノビレの半硬式飛行船との連携などについても紹介している。
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