LZ129:ヒンデンブルクが、レークハーストで炎上しているちょうどそのとき、飛行船LZ127:グラーフ・ツェッペリンは運航計画にしたがって南米航路の帰途、南大西洋上にあった。指令のハンス・フォン・シラー船長は、報道関係者のレポートを伝える無線を傍受することによって大惨事を知った。
彼は、この衝撃の知らせを乗組員に伝え、これを乗客に知らせないように厳しく命令した。その飛行船はドイツで、いつもの大歓迎ではなく静かに曳航された。
着陸のあと、フォン・シラー船長は乗客にヒンデンブルクの大事故を伝えた。
LZ127:グラーフ・ツェッペリンは、LZ129のレークハーストにおける終焉5日後の5月11日に、また南米飛行に就くことになっていた。しかし、エッケナー博士は、乗客を乗せた水素充填飛行船の運航を、この大事故の調査が終了するまで実施しないことを決めた。
火災原因調査のために、フーゴー・エッケナー博士、ルートヴィヒ・デューア博士、ブライトハウプト中佐、M.ディークマン、G.ボック両教授とF.ホフマン技師が現地の国家調査委員会を支援するためにアメリカに向かった。
当然ながら、我々は本国で大事故の原因となった可能性について考えた。対応する安全対策を講じ、ちょうど見込みが出始めていた我々の旅客運送をできるだけ早急に再開するために、それは非常に重要なことであった。
着陸の際、すべての写真担当は着陸索がどのように投下されるのかを撮影するために、自分たちの装置を船首部に向けていた。そのため、残念なことに、火元となった船体部 -垂直安定板すぐ前の船体背面- の写真は一枚も残っていない。すでに火災が発生してからはじめて、カメラは飛行船の後部に向けられた。このような理由から、現存する写真から火災原因の結論を導くことはできなかった。そこで我々は、次のような可能性について何度も考え議論を行った。
20年代および30年代に30~40隻建造され、当然レークハースト海軍飛行船基地近くの上空にとりわけ密集していたグッドイヤー軟式飛行船が、 -多くは発着場周辺の山林で養鶏場を営む農場主たちから、以前から何度も苦情を受けていたことを、我々は知っていた。
彼らは「ブリンプ」に対して憤りを感じていた。というのも、家禽がそれによっておかしくなってしまったからだ。鶏はパニックで囲いから逃げ出したり、何日も森をうろついたり、少なくとも一定期間卵を産まなかったりした。
だから私は、農場主のうちの一人が我々の飛行船を撃ったのではないかと考えた。 - ひょっとしたら、彼は飛行船を破壊するつもりなど全くなく、ただ怒りをぶちまけたかっただけかもしれない。
いずれにせよ、重量測定から着陸地点に到達するあいだに -それは少なくとも10分間であった- 我々の飛行船に漏洩が生じた。船尾が重くなるために、閉じなければならなかった。
我々は、おそらく第4ガス嚢から漏洩が発生したに違いないと推測することが出来た。
しかし、それほどまで急速にガスが漏洩するほど大きな破口が出来たことは説明がつかない。さらに、漏洩が発生した後でどのようにガスが発火しうるかということも不明であった。ガスが噴出と同時に炎上したとは、私にはとても考えられなかった。
炎上の一つの可能性は、飛行船のエンジンの排気ガスが高く噴き上げたところにスパークが飛んだことである。もっとも、排気管には金属フィルターが施され、火花が飛ぶのを防止することになっていた。しかし我々は、夜間にエンジンを停止し、別の向きに方向を変え、再起動するときに、依然として火花が飛び散っていたのを視認した。火花が漏出したガスに触れれば引火する可能性がある。しかしながら、委員会はこの発火原因を排除しなければならないと信じていた。
もう一つ、しばしば論議された別の可能性は放電による発火の可能性である。
しかし、これもガス嚢の漏洩で点火性のある混合ガスがそこに存在したということが前提となる。飛行船に落雷するとは考えられない。第一に、着陸時にそこに稲妻はなく、第二に、もしあったとしたら、地上で多くの人がそれを確実に見ていたはずである。
大気中の異なる高度では、電位に大変な差異が生じうるということは、現在ではよく知られている。
しかしながら、飛行船による電位の調整、すなわち放電は、着陸索が地面に触れるとき、あるいは飛行船の船体が大地に触れた際に初めて起こるはずである。
私の考えは、保持索の導電率が充分でなかったのではないか、というものである。我々が投下した保持索は完全に乾いており、ほこりが立ち、 -そしてこの短時間のあいだに降った霧雨では、静電気のアースに必要な、充分な導電率を得られるほどには濡れることが出来なかったと考えられるのである。
しかも、そのとき船体が地面に接触したときには、飛行船はもう赤々と燃えていたのである。
私はバラスト水を投下しなければならず、その投下を指示したが、それは炎から脱出するずっと前のことであった。
もう一つの可能性は、幾つかの飛行船の部分、例えば外被の外側の面と骨組みの間のような、船体の異なった部分の間で伝導率が充分でなかった際に、大気中の静電気によって次のようなことが起こることである。即ち、電位がある程度以上高くなるとスパークを生じてアースすることである。
しかし、例えば飛行船LZ130の場合もそうであったが、この理論はのちの調査では立証されなかった。
さらに、アメリカの著述家が述べた次のような可能性があるが、私自身は全く的はずれだと思っている。
それによると、乗組員あるいは乗客の誰かが時限爆弾を仕掛けたというのである。
第一に私は、乗組員をそれぞれ皆よく知っていたし、第二に、5分か10分後に時限信管で点火するためにガス嚢を引き裂き、地上でその結果を自分の眼で確かめようとし、あるいは生き延びようとした人間が居たとは考えられないからである。その上、乗客は常にマッチやライターの携行を点検されていたので、船内で監視の目をくぐってガス嚢に行き着くことは乗客にとって容易なことではない。私は、この説は全くくだらない、扇情的な作り話にすぎないと思う。
エッケナー博士の率いるドイツ代表とアメリカの委員会が会議を開いたとき、私の耳はまだ完全に聞き取れる状態ではなかった。しかし、数日後に診療所に迎えが来て、私は当局へ連れて行かれた。そこでは、委員会の委員が私を取り囲んで座り、詳しく質問した。私は当然、多くの事項について正確に説明することが出来た。なぜなら私は16時から当直につき、着陸を自身の手で行ったからである。調査委員会、なかでも C.A.ローゼンダール中佐は、火災発生後はバラスト水を排出せず、より強い衝撃を甘受するようにとの私の指示により、船尾に残された多くの乗組員がその命を救われた、との見解を示した。
調査委員会は、事故の原因について何の明確な結論にも到達しなかった。
それは特に、少なくともドイツ代表団にとって、政治的配慮のために裁量の余地が狭まるため、そして、原因としてサボタージュが議論になることは望ましくなかったためである。
それにもかかわらず我々と乗客は、飛行船の運航は継続されることになると確信していた。
我々のところには、すでに熱心な乗客の申込みが続いていた。私はいまだに、南米に暮らしていたあの老婦人のことをよく思い出す。彼女は、船でヨーロッパに航行したときにはいつも、サントスからハンブルクまでひどい船酔いで船室に横になっていた。それは大変なつらさだったに違いない。
彼女が最初に飛行船に乗ったとき - 我々はレシフェを出発して爽やかな朝、フェルナンド・ノローニャ島上空を飛行していたのだが - 彼女はスチュワードのクービスと一緒に指令ゴンドラにいた私のうしろに突然姿を見せた。
太陽がちょうど昇ったところで、海は眼下に静かに横たわっていた。
風が我々の進行方向に吹いていたので、我々はエンジン減速で航行し、そのエンジン音はもはや全く聞こえてこなかった。
その婦人は気持ちのままに歓声をあげた「ああ、ここは何て素晴らしいのでしょう!この美しさと穏やかさは表現することが出来ないわ!」彼女はすっかり興奮し、感激のあまりそのまま海にでも飛び込んでしまいそうなほどであった。それから毎年二度、彼女は飛行船でヨーロッパに行った。
私がまだニューヨークで怪我のためにクリニックに寝ていたとき、かつての乗客の多くが訪ねてきたが、その中にはノルウェー大統領の子息もいた。彼は私に「ザムトさん、また飛行船を作ってください。そして、また一緒に乗りましょう!」と言った。それほどまでに彼らは感激していた。ヒンデンブルクの事故も、彼らのそうした気持ちを変えることは出来なかったのである。依然としてLZ127、あるいは新たなLZ130で水素充填の飛行をともにしたいという乗客を、我々はきっと見つけていたことであろう。だが、いまや水素による運航を続けることはあまりに危険なことであった。そのため、エッケナー博士はすぐに、再びヘリウムを送るよう合衆国に働きかけた。博士が出火原因の調査でニューヨークに来たとき、彼はプルスと一緒に病院にいる私を訪ねてきた。
そして、我々の怪我に非常に心を痛めた。我々の外見はひどかった。彼は私を見て言った。「ザムトさん、はやく良くなって下さい。私は明日、大統領にヘリウムの供給を今一度お願いするつもりです。」「博士、お話しは聞こえていますが、私はそれを信じることが出来ません!」と私は答えた。次の朝、彼は9時頃ワシントンからやってきて、嬉々として言った「大統領は握手して、約束してくれた。あなたが快復すれば、ヘリウムで飛行を続けられますよ。」
私はまだ疑いながら答えた「私はまだ信じることが出来ないのです。」
実際に、1937年の秋には特例法によるLZ130へのヘリウム引き渡しがアメリカ政府によって保証されたようであった。フリードリッヒスハーフェンでは、LZ130の乗客区画が改造され、ヘリウム充填により揚力が10%減少するために、乗客定員は40名に減じられた。
LZ130の処女飛行は、もともと1937年10月27日にリオ・デ・ジャネイロ向けに予定されていたが、1938年の春にはヘリウムを充填し終え、飛行に備えようと期待した。
以下に示す、ヴァルター・ツェールの記事「LZ130」(学術誌『展望』42号、1938年、395頁)からの引用は、飛行船の専門領域で、飛行船航行の発展と飛行船技術の進展がどれほど多く見込まれていたかをも物語っている。
「重要な変化は、収容乗客数を50名から40名に減少させたことである。乗客区画は、同じように飛行船本体内部、船体の前部およそ3分の1の位置に造られた。ダイニングスペースが、その両側に続くそれ以外の昼間公室の間のいくらか高い位置に配置されている点で、LZ129の配置と異なっている。
昼間公室には、下方も水平方向も見渡せ、展望の利く大きな窓があった。
そこに続いて、プロムナードとしても利用可能な空間が広がり、一方には複数のデラックスキャビンがあり、その反対側は喫煙室であったが、ヘリウムは発火しないので、特別な仕切り扉は不要であった。
ダイニングの下には厨房があり、乗組員の食堂と必要な付属室があった。
既述のデラックスキャビンのほかに、そこより幾分低いところに昼間公室以外にも部屋が配置されていた。
また、この寝室の大半には外窓があり、乗客の望みに応じて眺望の可能性と直接 寝室に日が当たるように充分な配慮がなされていた。
LZ130が順調に運航している間に、LZ131の設計が進んでいた。
この新規発注では、船体がさらに14m長く、より高い浮揚力を備え100名の乗客を乗せることが出来るようになっていた。
鋭意新造が促進されて、LZ131は遅くとも1939年12月には完成されることになっていた。それは、同じく大西洋航路に就航することになっていた。
運航の再開には -アメリカでは、レークハーストとオパロッカ(フロリダ)で、それに応じた準備がすでに行われていた- ラインマイン飛行船空港の拡張が必要であった。
当時、グラーフ・ツェッペリンに提供されていた第一格納庫の隣に、第二格納庫が建設されるとこになった。使用開始は1938年5月とされた。
新格納庫はクナップ教授の構想で、幅52m、高さ51mで、長さは第一飛行船格納庫を24mも上まわる300mであった。
それは第一格納庫からおよそ500m南に隔たったところで、それと直角になるように計画された。
場所の選定と新格納庫を建てる位置の決め手になったのは収容システムの計画であり、その核心は方向転換出来る格納庫であった。
それは到来した飛行船を受け入れ、その回転可能な構造によって別の飛行船格納庫に送り出す閘門式格納庫として機能する。
こんにちの格納庫は、主に吹く風の向きに門扉を開放するが、それはしばしば損傷することがあり、予め運航計画で予定されていた出発や、予定通りの着陸の際に、格納庫建設時に想定されていた主な風向とは違う向きの風が吹くことがある。それによって発着は遅延する。それは地上や建物の近くで何処かから吹いてくる「横風」の中で操縦する際、高価な飛行船を損傷の危険にさらすことは出来ないからである。
運航計画通りの出発と空港上空に到来した飛行船の着陸を直ちに実行可能にする唯一の可能性は、風の方向と関係なく回転可能な閘門式格納庫である。この回転式格納庫の建設は、長い間実務家たちを悩ませた。
それは、その格納庫の建設に関する技術的課題の解決のためではない。それは熟練した格納庫設計者たちにとってはさほどの問題ではなかった。むしろ、特に悩みの種になったのは建設にかかるコストである。
とういうのは、長さ275m、高さ55m、幅50mの飛行船格納庫を、転車台上に作ろうとすると、そのような円板の建設には相当な飛行が必要となるからである。
ヘリウムによる運航に切り替えるためには、さまざまな新設備が必要になった。その一つが、すでに建設が始まっていたヘリウム純化装置であった。
飛行船のセルに浮力を与える気体はまず、純粋なガスの一部がセルの外殻から拡散し、このためそれと同量の空気がガスセルに入ることによって、時間経過とともに不純になりその結果、それまで純粋であったガスの質が低下し、浮力が減少する。
水素ガスは価格が安いので、それ以前はその年のシーズンの終わりには不純ガスが空中に排出されていた。高価なヘリウムの場合は、そのような浪費は避けられねばならない。
こうして一定期間後には、飛行船から不純になったヘリウムが吸入され特殊な精製装置に入れられて、再精製された高純度のヘリウムが使用のために蓄積されることになる。精製装置は不純なヘリウムを摂氏0度に冷却し、窒素、酸素、二酸化炭素、水蒸気などを液化あるいは凍結させる。
この方法によれば使用の際に低温であるにもかかわらず、ヘリウム中の不純物は形状を保ち、ヘリウムから分離することが可能になる。
アメリカ当局の発表によれば、ドイツはおよそ63万立方mもヘリウムを引き渡して貰えることになっており、1938年11月1日までにドイツに輸出することが出来るという。
特別のタンクを備えたドイツの飛行船は、ガスをメキシコ湾のヒューストンに受け取りに行くのである。
この沿岸基地まで、1000kmも内陸に位置するアマリロで生産されたガスは、アメリカの鉄道のタンク輸送車で運搬され、そこでそれぞれ150立方mのヘリウムを保管できる鋼製タンクに詰め替えられる。
北大西洋航路の終着点では、補充のために備蓄されたヘリウムが常に不可欠であった。なぜなら飛行船の大洋横断の際はいつも、大量のガスが消費されるからである。ただし、バラスト水が生成され、またスタート時にヘリウムが予熱されているため、それ以前の運航に較べればその消費量はかなり低減してはいる。
レークハーストではタンク輸送車で直接補充されたのに対し、フランクフルトには精製装置を備えた大きな予備貯蔵庫が設けられた。」
だが、残念ながら私が懸念していた通りのことが起こった。1938年3月に圧縮ヘリウムを充填する最初のガス容器をテキサスのヒューストンに持っていったとき、米政府の役人はヒットラーの支配するドイツ政府がそのガスを戦争目的に利用しようとすることを理由に、その実施許可を取り消したのである。
その背後には、米合衆国内務大臣イッキースの存在があった。
それでヘリウムの夢は決定的に潰え去り、我々はその容器を再び送り返さなければならなかった。
その間に飛行船LZ127:グラーフ・ツェッペリンはライン・マイン空港の南格納庫へ移送された。滑車で格納庫の屋根が吊り上げられ、ガスが排出された。そこで、飛行船の内部も見学できるように解放された。膨大な数の見学者が殺到した。
中には、飛行船の運航より見学によって多くの収益があったという者もいた。
1938年9月にLZ130は完成した。
この飛行船の名称をどうするかという議論に終止符を打ったのはエッケナー博士であった。国家社会主義的色彩の強い名前で他の民族を挑発する可能性を避けるために、彼は迅速に決然と 再び簡単明瞭にグラーフ・ツェッペリンと命名した。
しかし、それ以上に解決が困難だったのは、もはや我々のもとではヘリウムが手に入らないと言うことであった。
エッケナー博士は、我々士官を集めて、水素充填による旅客運送飛行を行うべきか、また それにはどのような安全対策がつけ加えられるべきかについて協議した。
結局のところ、それまで30年間にわたった水素充填飛行船で旅客運送飛行を行ってきたが、それまでに一人の人身事故も起こしていなかったのである。
我々は最終的に、飛行船をさらに慎重に取り扱うことによって、今後の進展に責任を負うことが出来るという結論に至った。
そうして、ヘリウムで運航する際には必要ではなくなる安全設備を備えたのち、我々は実際にLZ130に水素を充填した。
しかしその後、乗客を伴う飛行は -ただ定期的旅客運送だけでなく- 外国へのあらゆる飛行が政府によって差し止められた。これにより、以前行った寄港地巡航飛行や、先に行った地中海や北欧への旅客飛行を企画できるのではないかとういう我々の希望は消えてしまった。我々は再び、何もすることがなく立ち尽くした。我々はイベントフライトを企画し、航空デーとして空のスポーツクラブやそのほかのイベントを訪ね、切手蒐集家達の郵便物を運ぼうと計画した。
そこに全く別の方面から、驚くような支援の手が差し伸べられた。航空省が我々の飛行船を無線監察と中継送信局の研究・測定実験室として使おうと考えたのである。どのような経緯でそこに至ったのか、また 我々がそこで何を体験したかは、次の章でエルンスト・ブロイニング博士が述べることになっている。
私の大きな喜びは、1938年11月5日にグラーフ・ツェッペリンⅡの指揮権を委任されたことであった。
その日以前に予定されていた7回の飛行のうちの3回は、エッケナー博士の指揮のもとで、4回目はハンス・フォン・シラー船長の指揮のもとで、私は一等航海士として従事した。そして、1938年10月31日に、私はその飛行船をフランクフルトまで運航して行った。 - この飛行船が再びフリードリッヒスハーフェンに2度と戻ることはなかったのである。