LZ127Profile

エルンスト A.レーマン

Lehmann

エルンスト A.レーマンは1886年、マンハイムの近く、ライン川沿いのルートヴィヒスハーフェンで生まれた。

彼はルートヴィヒスハーフェンの人文系ギムナジウムを卒業後、キールの海軍工廠で働いた後、1905年に見習士官練習船「ストッシュ」に乗っている。その後、ベルリンのシャルロッテンブルク工業専門学校で造船・造機を専攻した。ヨットで多くのヨットレースやクルーズを経験している。洋上の艦隊演習に参加し、少尉として軍艦に乗務した。

1912年に工学士になり、翌年の春エッケナーの指導のもとで飛行船乗りとしての教育を受けることになった。同年秋、飛行船「LZ17:ザクセン」の指令に任命された。その年の冬、エッケナー博士と一緒に飛行船士官/乗組員を指導管理する体制作りに参画。1914年には陸軍飛行船「ザクセン」の指令になっている。1914年、第一次大戦でベルギー、イギリス、フランス、ロシアそれに北海やバルト海で爆撃や偵察に出撃している。この間「LZⅩⅡ(ツェッペリン製造番号:LZ26)」、「LZ90(LZ60)」、「LZ98(LZ68)」、「LZ120(LZ90)」の指揮をとっている。

1918年にはフリードリッヒスハーフェンのツェッペリン飛行船製造社の工作部長を担当した。翌年は「L72」をアメリカ行に就航させようと準備に従事した。その後スェーデンに6ヶ月勤務し、ストックホルム・フリードリッヒスハーフェン・地中海航行の運航採算の試算を行っている。

1921年に4ヶ月アメリカで勤務し、ニューヨーク・シカゴ間飛行船定期運航の準備を行い、翌年には合衆国、イギリスと北大西洋飛行船航路について交渉を行っている。

1923年には、オハイオ州アクロンのグッドイヤー・ツェッペリン社の技術担当副社長に就任している。

1929年に「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」が世界周航を行った際、レークハーストで下船したエッケナー博士に代わってフリードリッヒスハーフェンまでの帰途を指揮している。

1936年3月26日、完成したばかりの「LZ129:ヒンデンブルク」が「グラーフ・ツェッペリン」とともにナチスの国民投票のプロパガンダ飛行にレーヴェンタール発着場を飛び立つ際、すでに上空に「グラーフ・ツェッペリン」が来ていたので強い突風のなかを、エッケナー博士の勧告に従わず離陸しようとしたレーマン船長は「ヒンデンブルク」の垂直尾翼下端をぶっつけて損傷してしまった。

エッケナー博士は立会人や従業員の前で「レーマン君、あの風の中で飛行船をどう操作しようとしたのか?君は世界中でも馬鹿馬鹿しいこの飛行を延期する最良の言い訳が出来たはずだ。君が飛行船を危険に曝したのはゲッベルスの不機嫌を避けるためだけではないのか?」と激しく責めた。

宣伝相のゲッベルスがこの話を聞いたとき、記者会見を開いて次のような怒りの発表を行っている。「エッケナー博士は自分で自身を国家から遠ざけてしまった。もはや将来、彼の名が新聞に載ることも彼の写真が使われることもないであろう。」

こうしてナチ政府はエッケナー博士をツェッペリン社の会長として追い出し、大西洋横断飛行を実施するDZRの実権をナチの意向をより受けやすいレーマン船長に握らせたのである。

1937年5月6日にレークハーストで起きた「ヒンデンブルク」の惨事の際、指令はマックス・プルス船長であったがレーマン社長も乗船しており、プルス船長とレーマン社長が最後に操縦室の窓から飛び降りたが、レーマン社長は重度の火傷で翌日病院で亡くなった。

後任として社長になったのは主任設計者であったルートヴィヒ・デューア博士であった。

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