「LZ127」は1928年7月8日、フェルディナンド・アウグスト・アドルフ・ツェッペリン伯爵の90回目の誕生日に、伯爵の一人娘であるヘラ・ブランデンシュタイン・ツェッペリン伯爵夫人によって、硬式飛行船を発明し一生をその開発・改良に捧げた偉人にちなんで「グラーフ・ツェッペリン」と命名された。
この飛行船は、エッケナー博士やその協賛者がドイツ国内で100回以上の講演会を開催して集めた「ツェッペリン・エッケナー義捐金」に、政府も補助金を交付して得られた基金で建造された。
基本計画のプロトタイプは、賠償飛行船と呼ばれアメリカに空輸された後、浮揚ガスをヘリウムに置換され「ZRⅢ:ロサンゼルス」と命名されたアメリカ海軍の「LZ126」である。
アメリカに賠償として提供することになっていた軍用飛行船を、降伏したドイツ艦船がスカパフローで自沈したことを聞いた維持管理をしていたドイツ軍兵士が破壊したため、その代償に80万ドルの賠償金が支払われることになった。
エッケナー博士はこの賠償金の代わりに新造飛行船を建造することを提案し、直接アメリカ軍事委員会と交渉することになった。
ヴェルサイユ条約では軍用飛行船の建造を堅く禁じていたため、「LZ126」は旅客用飛行船として建造された。
大戦中の1917年11月にブルガリアのヤンボルから14トンの補給物資を搭載し地中海を渡って、独領東アフリカ(スーダン)に向かい、地上軍が降伏したため長駆出発基地に戻った飛行船があった。
ガス容量 68,500立方mの「L59(LZ104)」である。このとき同船は 6,700kmを無着陸で航行した。
この実績によりエッケナー博士は大型船であれば大西洋横断は可能であると判断し、「LZ126」のサイズをヴェルサイユ条約で上限と決められた 3万立方mを大幅に越える 7万立方mを主張し、認められたのである。
エッケナー博士の功績の第一に、この「LZ126」を建造し、回航したことを挙げる人がいる。
これを原型として、大西洋横断航路実験船「LZ127:グラーフ・ツェッペリン」、本格的旅客定期船「LZ129:ヒンデンブルク」型が建造され就航したからである。
その実験船の大きさは「LZ126」の体積の1.5倍、10万5千立方mであったが、エッケナー博士の考える夢の乗り物を実現するに充分ではなかった。
(「LZ129:ヒンデンブルク」は 20万立方mである。)
9月には残工事も終わり、短い試験飛行が実施され、エッケナー博士は、あらゆる観点から充分満足出来るものであったと著書のなかで述懐している。有効揚力は予測より幾分高めであり、操縦性は良好で、エンジン全開で約130キロの時速は期待通りであったと述べている。船体構造には小さな欠陥も見あたらなかったという。
トップページに戻る