1928年9月18日には、新造船では必ず実施されるエンジン評価のための36時間運転が行われた。
当初の予定ではボーデン湖を周回したあとニュルンベルク、ライプツィヒ、ドレスデンを通ってベルリンに行き、そこからハンブルクを経て北海に出て夜間巡航を行い、デュッセルドルフ、ケルン、フランクフルトをまわって帰る予定であった。
経路は報道されていたので、通過予定の各地では期待して待っていた。
ところが、離陸して間もなくウルムとニュルンベルクのあいだにいるときに、無線で受信した気象予報では低い雨雲がライプツィヒとベルリンの上空に広がっていると伝えてきた。その地域では地上から飛行船を見ることは出来ないと判断したエッケナー博士は予定を変更して西に向かい、フランクフルト、マインツを経てライン川に出て、渓谷を北海まで下った。
上空を飛行すると報じられたデュッセルドルフやケルンでは数千人の人が手旗で歓迎し、その熱狂ぶりは1908年のエヒターディンゲンで「LZ4」が失われ、600万マルクの義捐金が寄せられたとき以上であったと博士は述べている。
「グラーフ・ツェッペリン」は夕暮れにオランダ国境を越えてフリージア諸島を越えて北海に出た。
エッケナー博士は政府代表や新聞記者が乗っていた新聞記者に、アムステルダムを通って北海を英国海岸のハリッジに向かうと告げ、フリシンゲン燈台で自船位置を確認して夜間海上巡航を行った。
翌朝、ハンブルク、キールからベルリンをまわり、その勇姿をドイツ国民に披露したという。
大洋を航行するために建造された大型旅客用飛行船の滑り出しは順調であった。
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