LZ127Profile

ドラモンド・ヘイ女史

Hay

硬式飛行船「グラーフ・ツェッペリン」の話に欠かせない女史がいた。グレース・ドランモンド・ヘイ女史である。彼女は「グラーフ・ツェッペリン」が世界周航のスポンサー探しに初めて大西洋を横断してアメリカに向かうときからカール・フォン・ヴィーガント氏と共に乗船している。エッケナー博士の著書によると、この飛行には乗客20名が乗船していたが、そのうち4名が航空省の代表、10名が有料の一般乗客、残りの6名が大新聞社の代表であった。ドラモンド・ヘイ女史とヴィーガント氏は映画「市民ケーン」のモデルとなったウィリアム・ランドルフ・ハースト率いるハースト新聞の代表として乗船したのである。ツェッペリン飛行船の話で「レディ」と言えば彼女のことであった。

その姓ドラモンド・ヘイの示すようにイギリス人である。イギリス外務省高官の未亡人であったが、エジプトなど北アフリカで仕事をしていた頃ハースト社のヴィーガント氏と知り合い、記者としての仕事がしたいと押しかけて同社の記者となったという。

「グラーフ・ツェッペリン」はその最初の飛行で、アゾレス諸島を過ぎてからスコール前線に遭い、船首が15度も持ち上がり、朝食のセットしてあったテーブルから食器類が落ちて砕け、ポットやフライパンが床を走って船内は狂乱状態になった。水平尾翼の下面が裂け、エッケナー博士の子息クヌート達は命綱をつけて嵐の船外作業で補修を行い、無線で米海軍省に救助を要請する事態となった。事態が一段落したところで責任者のエッケナー博士が乗客の状況確認と現況説明のため各船室をまわったが、怯えてしまった男も居るなかで彼女は「驚きましたわ。伯爵さまは気難しくて機嫌を取るのに費用が掛かるのですね。でもこの際、お皿やカップを気にしてはいられませんわね。」と冷静に振る舞っていた。エッケナー博士はすっかり彼女が気に入ったようで、後日の飛行船取材には彼女を指名した程であったという。

エッケナー博士がドイツに帰って世界周航の資金獲得に奔走していたところ、ハースト社から世界独占報道権の代償として所要経費の3分の2にあたる15万ドル提供の用意があるとの提案があった。イギリスを除くヨーロッパは独占権から除外することで10万ドルに減額するなど、ハースト社の代理人ヴィーガント氏と交渉が行われ、ヴィーガント氏とドラモンド・ヘイ女史が乗船することになった。ちなみにこの周航で設定された乗船料は1人当たり2500ドルであったという。

世界周航のとき、ディナーのエッケナー博士のテーブルは、極地探検家ウィルキンス卿、米海軍飛行船隊司令ローゼンタール中佐、大富豪の相続人リーズ氏、スペイン国王の主治医メヒアス博士とドラモンド・ヘイ女史であった。

彼女は暖房もない船内で早朝からサロンに出ていたと伝えられている。20kgに制限された携行品に夜会服やドレスなどサロンに出てくるたびに盛装していたともいわれる。女史はその取材記で、シベリア上空で行われた蓄音機のジャズとカクテルによるダンスパーティは素晴らしい想い出になったと記している。サロンでレーマン船長のアコーデオンを聞く写真も、操縦室でエッケナー博士と写った写真も残されている。

ドラモンド・ヘイ女史は1930年に開設された「グラーフ・ツェッペリン」の南米航路第1便にも招待されて乗船している。

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